【松井須磨子】整形の後遺症に苦しむ!美人女優が送った壮絶な人生とは

松井須磨子(まついすまこ)は、日本の演劇史に名を残す名女優。

「日本初の人気女優」「日本初の歌う女優」「日本初のスキャンダル女優」「日本初の整形女優」など、“日本初”を4冠達成した人物としても有名です。

明治から大正にかけて大活躍した彼女ですが、一世を風靡(ふうび)していたにも関わらず、実は32歳という若さで亡くなっています。

その人生の裏には、幼いころからとても恵まれたとはいえない家庭環境と、整形の後遺症に苦しめられたという背景、そして、最愛の人「島村抱月(しまむらほうげつ)」との出会いが大きく関係しているんです。

今回は、そんな松井須磨子の壮絶な人生に迫ってみたいと思います。

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松井須磨子の生い立ち

松井須磨子(本名:小林正子)は1886年3月、長野県松代町清野にある士族の家庭に生まれました。

大家族で裕福な家庭ではなく、6歳のとき須磨子は養子に出されることになります。

須磨子が小学校を卒業して間もなく養父が亡くなり、須磨子は再び実家に戻ることに。
しかし、その後すぐに実父も亡くなってしまいます。

幼い時期に父親を2度も亡くすという悲惨な経験をした彼女は、自分の人生を歩むため17歳で上京を決意。姉の嫁ぎ先である東京の和菓子屋「風月堂」を尋ねることにしました。

間もなくしてとある男性と結婚した須磨子でしたが、体が弱く病気がちだった須磨子は、料理屋を営んでいた夫の実家と折り合いがつかず、わずか1年で離婚してしまいます。

お金がないからと養子に出されたり、かと思えば呼び戻されたり、初めての嫁ぎ先からは一方的な理由で離縁されたりと、他人に振り回される人生にうんざりした須磨子は、離婚を機にある決心をします。

平凡な人生を脱却するため、彼女は「女優」になるという道を選んだのです。

そして、ここから「松井須磨子」としての人生が始まることになります。
女優デビューから名女優になるまで
女優になる決心をし、俳優養成所に願書を提出した須磨子でしたが、なんと結果は不合格。

理由は「鼻が低く平坦な顔立ちで、女優としての華が全くない」とのこと。

なんと容姿に対しての評価が低いことが原因だったのです。

しかし、どうしても諦めがつかなかった須磨子は驚くべき行動を取ります。

「鼻が低いなら高くすればいい」と考え、鼻を高くする整形を受けたのです。

当時整形という概念はほとんど浸透していなかったため、この行動は周囲を驚かせました。

高い鼻を手に入れた須磨子は、見事俳優養成所に入学を許可されますが、後にこの整形が彼女を大きく苦しめることになります。

1909年、文芸協会演劇研究所1期生として女優デビューを果たし、1911年には「人形の家」のノラ役に大抜擢。その高い演技力が認められ、一気に人気女優への階段を駆け上がります。

そして、須磨子の運命の相手である「島村抱月」と出会い、1913年、抱月と共に芸術座を立ち上げました。

松井須磨子の壮絶な人生

松井須磨子は若いうちもさまざまな経験をしてきましたが、島村抱月と出会ってからはさらに波乱万丈でした。

女優として順風満帆に突き進んでいるように見える須磨子ですが、実は須磨子と抱月は不倫関係にありました。抱月には妻子がいたのです。
芸術座という新しい劇団の立ち上げも、抱月との不倫関係が発覚した須磨子が文芸協会にいられなくなてしまったことが原因だと言われています。

しかし、不倫報道でスキャンダルの対象であるにも関わらず、須磨子の女優としての人気は留まることを知りません。
トルストイ原作の「復活」で須磨子は主役のカチューシャを演じ、劇中歌「カチューシャの唄」は2万枚の売上げを誇る爆発的な大ヒットとなりました。

その後もロシア公演を成功させたり、「日本初の歌う女優」としてヒット作を飛ばし続ける須磨子でしたが、女優になるためにした整形と、最愛の人である抱月の死が彼女を追い詰めていきます。

整形後遺症と抱月の死

抱月と半同棲状態にあった須磨子でしたが、月日が経つにつれて、段々と整形の後遺症が彼女を襲い始めます。

当時の整形技術はおせじにも高いとはいえず、須磨子は「鼻に蝋(ろう)を入れて高さを出す」という今では考えられない整形を受けていました。

体が拒絶反応を起こし炎症しても、蝋を取り出す技術がなかったため、須磨子は患部を冷やしてただひたすら痛みに耐え続けるしかなかったのです。

蝋は溶けやすく変形しやすかったため、最愛の抱月からもその醜悪(しゅうあく)さを指摘され始めます。

女優としての活動にも身が入らず、苦しい日々を送る須磨子でしたが、遂に最大の悲劇が彼女を襲います。

1918年11月、当時流行り病であったスペイン風邪に抱月が感染し、急死。

その2か月後、須磨子は後を追うように首を吊り、32年という短い人生に幕をおろしました。

抱月が亡くなってからの2ヵ月間、須磨子は舞台公演に参加し続けたといいます。

自害する当日も、芸術座の公演「カルメン」に参加し、恋に燃える主人公カルメンを演じていました。

情熱的に生きるカルメンと、抱月への届かぬ愛に苦しむ須磨子。

燃えるような抱月への愛が、彼女を自害まで追いつめてしまったのでしょうか。

須磨子が首を吊った劇場の道具部屋には、須磨子と抱月が仲睦(なかむつ)まじく映っている写真と花、線香が置かれていたそうです。

自立した女性で有り続けたい

須磨子が名女優になるきっかけとなった「人形の家」は、女性解放運動に影響を与えた演劇として後に教科書に載ることになります。

それは、「家庭から解き放たれて自立した女性を歌う主人公のノラ」と、「どんな環境にあっても自分の望みを叶え続ける須磨子」が重なり、多くの女性の希望となったからではないでしょうか。

きっとこれからも、「自立した女性であり続けたい」という須磨子の姿勢は、多くの女性の憧れとなり続けることでしょう。

いかがでしたでしょうか?

今回の松井須磨子の話はお役に立ちそうでしょうか?

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それではありがとうございました。