【宮沢賢治】いかがわしい本が見つかって苦しい言い訳!?知られざる逸話

宮沢賢治(みやざわけんじ)は1896年、明治29年に岩手県で生まれた詩人、童話作家です。

彼の作品で有名なのが『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎(またさぶろう)』、『注文の多い料理店』など。

なかでも『銀河鉄道の夜』は多くの人に読まれ、アニメ化、映画化もされている他、後世の多くの作品にも影響を与えています。

ジョバンニとカムパネルラという二人の少年が、不思議な列車に乗って銀河を旅する、という幻想的な物語です。

しかし賢治の著作が有名になったのは彼の死後のことで、生前は教師などの職業に就いていました。彼はいったい、どのような人生を歩んだのでしょうか。

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宮沢賢治の人生

ではまずは、宮沢賢治の人生について見ていきましょう。

質屋の長男として生まれる

宮沢賢治は1896年に生まれました。

実家は質屋(しちや)を営む裕福な家庭です。

賢治はその恵まれた環境に生まれ育った自分と、質入れに来る困窮した農民の落差を目にしており、それが彼の作品にも反映されるテーマ「利他(りた)の精神」を育てていきました。 

日蓮宗を信仰

彼の父親が信仰していたのは仏教の浄土真宗(じょうどしんしゅう)であったのに、賢治は「死後の極楽往生」を主に目指す浄土真宗より、人々のこの世での救済を重んじる日蓮宗(にちれんしゅう)を信仰していました。

父親にも日蓮宗への宗旨(しゅうし)変えを迫ってよく喧嘩になったといいます。

彼の作品にも、信仰した日蓮宗が重んじる法華経(ほけきょう)の精神が色濃く反映されているといわれています。

法華経の思想のひとつに「自分を犠牲にして他人を助ける」というものがあるのですが、たとえば1924年ごろ、賢治が教師をしていた頃に書かれた『銀河鉄道の夜』には「あのタイタニック号に乗った乗客が、危険をかえりみず他の乗客を助ける」というエピソードが登場します。

教師などの仕事を経て農業を始める

1926年、賢治は4年ほど続けた教師の仕事を辞め、みずから野菜などを作るようになります。

賢治には父親の質屋が、困っている農民から質草(しちぐさ)を不当に安く買い叩いているように見え、家業を継ぐことにも反発しました。

そして教師として働いたのち、農業をいとなみ、また農民のために肥料に関する相談に乗るなど、農業指導の仕事も積極的におこなっていたのです。

そして、「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」を設立します。

賢治はここでレコードの鑑賞会や童話の朗読会などをおこない、農民たちによる楽団なども作ろうとしますが、その活動が「社会主義教育ではないか」と警察からにらまれ、取り調べを受けたりもしました。

急性肺炎で死去

そんな彼は1933年、37歳という若さで死去します。死因は急性肺炎でした。

死後、彼の作品に魅了された詩人・草野心平(くさのしんぺい)らによってその作品が世に知られるようになり、賢治は近代日本の有名作家のひとりとなりました。

宮沢賢治の知られざる逸話

ここからはそんな宮沢賢治の、一般的なイメージを裏切るちょっとおかしなエピソードを紹介していきます。

元祖ベジタリアン!? なのに動物を食べて言い訳の手紙

賢治の地元の親友である保阪嘉内(ほさかかない)に、あるとき賢治から手紙が届きます。

「私は春から生物のからだを食うのをやめました」。

これは、ベジタリアンになるという宣言だったようです。

当時、日本では作家トルストイの影響によって菜食主義が一部の人々に受け入れられており、賢治も「動物の命を大事にしたい」という思いからか、菜食主義者になることを決意するのです。

賢治はこの菜食主義についての物語『ビヂテリアン大祭』さえ書き残しています。

これは菜食主義をめぐっておこなわれる議論を題材にした作品でした。

しかし、その志(こころざし)を貫き通すのは簡単ではなかったよう。

賢治は同じく保阪にあてた手紙で、なんと茶碗蒸し、刺身などをちゃっかり食べてしまったことを告白しているのです。

なんちゃってベジタリアンだったようですね。

そして、「食われる魚がもし私のうしろにいて見ていたら何と思うでしょうか」「この人は私の唯一の命を捨てた、その体をまずそうに食っている」と、食べられる魚の気持ちを想像し、手紙に書き綴っていました。

で、菜食主義の誓いはどこに行ったんです?

野菜を売り歩いても相手にされず畑泥棒に遭う

苦しい生活を送る農民に同情的だった賢治は、教師をやめ、自分自身が農業の道を歩むことを決意します。

荒れ地を開墾(かいこん)するかたわら、『農民芸術概論綱要(のうみんげんじゅつがいろんこうよう)』という著作を手掛けています。

そしてみずから作った野菜をリヤカーに載せ、売り歩くことまでしたのだとか。

しかし、どうも周囲の人々にはこれが真剣な商売だと思ってもらえなかったようで、中にはお金を払わずに野菜を持っていってしまう人もいたのだそうです。

ついには、賢治の畑から直接、白菜を盗んでいく人さえ現れました。これには賢治も困り果てます。

とはいえ、そこにはれっきとした理由がありました。

それは、賢治が野菜を売り歩くのに使っていたリヤカー。このリヤカーは当時は高級品だったため、賢治の商売も「お金持ちの息子の道楽」と思われていたフシがあるのです。

だからといって畑泥棒をしていい理由にはなりませんけどね。

実際のところ、賢治は実家が裕福だったこともあってお金には不自由していませんでした。彼が通い詰めたレコード店は、賢治ひとりのおかげでかなりの売上があり、イギリスのレコード会社から表彰されるほどでした。

日々、苦労しながら生きる農家の人々を思っていても、自分にお金があるせいでなかなか理解されないというのも悲しいものですね。

いかがわしい本が見つかって苦しい言い訳!?

清く正しく、そして生命への慈愛に満ちた人、というイメージがある賢治ですが、性的なことにも興味はあったようです。

彼はお金にものを言わせて浮世絵を集めていたのですが、その一部は春画(しゅんが)、アダルトな題材を扱った浮世絵でした。彼の春画コレクションは、なんと積み上げたときに高さが30センチにもなったのだとか。

また、賢治が一時期、熱心に読んでいた本のひとつにハヴロック・エリスの『性の心理』というものがあります。これは性や性教育の問題を扱った本でしたが、本国のイギリスでは出版を差し止められたほどきわどい内容であるとみなされていました。

賢治はこの日本語訳を購入したのですが、運の悪いことにそれを見つかってしまいます。

賢治は苦し紛れに「子どもたちが性的な間違いを起こさないように教えたいので」と言い訳したのだそう。

・・・本当でしょうかね?

また、その中には伏せ字になっている箇所がありました。ひときわきわどい部分は読めないようになっていたのです。しかし、賢治はあるとき、「仙台の本屋にその原書がある」という噂を耳にします。

賢治はその本屋を訪ね、伏せ字の部分が原文でどう書かれているのか、わざわざ確かめたそうです。「宮沢先生がアダルト本を読みに仙台まで行った」というエピソードは、しっかりと彼の教え子によって語り継がれることになってしまいました。

さまざまな一面を持つ宮沢賢治

生命や農民たちを愛しながら印象的な詩、童話などを多く残し、若くして亡くなった宮沢賢治。

現代でもファンが多い彼ですが、農民を思う気持ちが空回りしたり、アダルトな本を読んでいるのを見つかったりと、自身のダメエピソードにも富んだ人物だったようです。

このような彼の人物像を知った上で賢治の作品を読むと、また違った面白さが見つかるかもしれません。

偉人と呼ばれる人物には、いろいろな一面があるようですね。

いかがでしたでしょうか?

今回の宮沢賢治の話はお役に立ちそうでしょうか?

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それではありがとうございました。