【卑弥呼】実は引きこもりだった!?姿を見せない女王とはいったい?

卑弥呼(ひみこ)といえば、日本史に詳しくない人でも知っているほど古代日本の重要人物。

彼女は3世紀、いまの日本列島のどこかにあった邪馬台国(やまたいこく)という国の女王でした。まじないによって人々を支配し、当時の先進国であった中国の魏(ぎ)に使いを送って、その後ろ盾を得たと言われています。彼女の実像や、邪馬台国がどこにあったか、などさまざまな謎があります。今回は、みんなが知っているのに謎だらけの女王・卑弥呼の意外な一面をご紹介します。

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卑弥呼の生き様

まずは卑弥呼の生き様を見ていきましょう。いろいろな説があるので、ここではその中の一説をご紹介していきます。

倭国の戦乱を収める

2世紀後半から3世紀はじめの日本列島は中国の王朝から「倭(わ)」と呼ばれ、まだ全国的な統一政権はありませんでした。特にこの頃は男の王が治める倭に内乱が続き、人々は一人の女性を王に。これによって混乱は収まったといいます。この女王こそ、われわれが「卑弥呼」と呼んでいる人物です。では卑弥呼は内乱をどのように収めたのでしょうか。

まじないによって人々を治める

卑弥呼のことを記した当時の中国の史書として、いわゆる『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』というものがあります。ここには、卑弥呼が「鬼道(きどう)」によって人々を治めた、と書かれています。この「鬼道」という言葉が何を指しているのか明確にはわかっていませんが、占いやまじないなどをおこなうシャーマン的なものであり、それを操っていた人物が卑弥呼であったという説が有力なようです。

また、「卑弥呼には弟がおり、補佐して国を治めていた」と書かれており、宗教的な王が卑弥呼であり、一方でこの弟が現実の政治を担っていた、と解釈する人もいます。

魏に使いを送る

西暦238年、卑弥呼は当時、中国北部を治めていた魏(ぎ)に使いを送ります。

当時から中国の周辺に住む諸国は中華地域を治める皇帝に使いを送り、自分たちの地域での支配権を保証してもらうのがならわしでした。卑弥呼はこのとき、魏の皇帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と、その証として金印、銅鏡(どうきょう)100枚などを贈られます。ただ、この金印は現在に至るまで見つかっていません。疑問が残りますね。

卑弥呼の墓は不確定

やがて卑弥呼は亡くなり、墓に葬(ほうむ)られます。その墓には100人もの奴隷(どれい)が一緒に埋められました。その後男の王が立てられましたが、諸国はこれに従わず争いになり、1000人以上の犠牲者が出たといいます。そのため、卑弥呼の親族である「臺與(とよ)」という13歳の女性を女王に立てることで、その争いをおさめたのだとか。

なぜ女性を王にたてることで争いが収まるのか、不思議ですね。この卑弥呼の墓についても、奈良県の箸墓古墳(はしはかこふん)であるとする説や九州の石塚山古墳(いしづかやまこふん)であるとする説などさまざまな説があり、確定していません。

卑弥呼の謎はさらに深まるばかり

このように謎がいっぱいの卑弥呼ですが、実は一般の人々が抱いているイメージとは、ちょっと違った人物であったことがわかっています。そこでここからは、卑弥呼の一風変わった噂を見ていきましょう。

「卑弥呼」という名前は悪口

そもそも、「卑弥呼」という名前には「卑しい」という字が入っており、悪い意味が込められています。といっても親が彼女に悪い名前をつけた、とか、倭の人民から嫌われていた、とかそういうことではありません。彼女のことを魏志倭人伝に書き記した魏の人々が、悪い意味をもつ漢字を彼女の呼び名にあてたらしいのです。

当時、日本に文字はなく、発音による会話だけでコミュニケーションをとっていました。

彼女に仕えた倭の人々が女王のことを「ヒミコ」と呼んでおり、魏の使者がそれを聞いて漢字を使ってその「ヒミコ」を表現しようとします。同じような発音の漢字はいくつもあったでしょうに、彼はそこにあえて「卑しい」という字を使ったのです。中華王朝はこのようなことを「鮮卑(せんぴ)」とか「蒙古(もうこ)」とかいった、ほかの異民族に対してもおこなっていたといわれています。

卑弥呼が自身の名前に付け加えられた悪い意味を認識していたかどうかはわかりませんが、知っていたらさぞかし怒ったのではないでしょうか。

卑弥呼は日本初の引きこもりだった!?

卑弥呼のことを書いた「魏志倭人伝」には、女王となってからの卑弥呼についてこのように書かれています。

「弟がいて、補佐して国を治めている。王となってから会いに来るものはほとんどなく、1000人の下女が仕えている。ただ一人の男子が食事の給仕をし、卑弥呼の言葉を伝え、その住む場所に出入りする」

彼女は仕える人々や豪族(ごうぞく)などの前に姿を現す場面はほぼなく、顔を合わせるのは食事を運んでくる男性だけ。なかなか寂しい生活だったのではないでしょうか。つまり彼女は女王でありながら、ほとんど引きこもりのような生活を送っていたのです。

「卑弥呼は天照大御神(あまてらすおおみかみ)のモデルである」という説もありますが、この「引きこもり」の女王・卑弥呼は、天照大御神の登場する「天の岩戸(あまのいわど)神話」を思わせます。神話の中で天照大御神は乱暴な弟を恐れて天の岩戸に引きこもるのです。

なんだか似ていますよね。

卑弥呼はお年寄りだった?

歴史学習漫画などでは、卑弥呼はまるで若く美しい女性であったかのように描かれることがあります。しかし少なくとも彼女の国を訪れた魏の使者が、彼女のそのような若く美しい顔を拝むのは無理だったでしょう。なぜなら魏の使者が邪馬台国に着いたとき、卑弥呼はすでに年老いていたと考えられるからです。

「魏志倭人伝」は卑弥呼のことを「すでに年老いていた」と書いています。まあ古代のことですので30代とか40代のことを「年老いていた」と言っている可能性もありますし、歳をとっても美しい美魔女だった可能性もありますけどね。

ミステリアスな女王の秘密

謎だらけの女王・卑弥呼。彼女の実像を知る手がかりは、「魏志倭人伝」をはじめとしたわずかな中国の歴史書しかありません。いつの日か考古学的発見やあらたな文献の発見によって、彼女の謎が解ける日は来るのでしょうか。こうした謎多き女性には、なぜか惹かれてしまうもの。すべてを明かしすぎないことこそが人々をひきつける秘訣なのかもしれませんね。

いかがでしたか?

今回の卑弥呼の話はお役に立ちそうでしょうか?是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。よかったらコメントもしていただけると嬉しいです。

それではありがとうございました。