【平塚らいてう】事実婚で出産 女性・母性を守ろうとした魁 心中未遂の過去も

旧仮名づかいで「ら・い・て・う」と書いて、
「らいちょう」と読みます。
平塚らいてう、女性運動家として知られる人物ですが、
詳しくは何をした人物なのかよくわからないという人も多いかと思います。

ただ、「元始女性は太陽であった」という言葉を知っている人も多いはず。
連続テレビ小説「あさが来た」では、大島優子さんが彼女を演じました。
今回は母性を含めた女性の権利獲得と、平和を訴えた平塚らいてうのお話です。

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起業・企業にストーリーは大切ですよね。
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平塚らいてうの人生とは?

1886年(明治19年)2月10日、彼女は当時の東京府東京市麹町区に生まれます。
父の定二郎(さだじろう)は元紀州藩士で会計検査院に勤めるインテリ高級役人。
しかも、明治政府から欧米へ視察にも出向いているような人物で仕事ができる人物で、
この父と母・光澤(つや)はともに教育熱心でした。

らいてうという名前は本名ではありません。
本名は平塚明(ひらつかはる)といいます。

生家は裕福で、ハイカラな家庭。自宅は洋館造りでした。
洋館に住む彼女はお嬢様の中のお嬢様という女の子だったのかもしれません。
しかし、生まれつき喉が弱かったらしく、
あまり大きな声で話すことはできなかったそうです。

ただ、声の大きさとは反対に、一度決めたことはテコでも動かない、
言い出したら譲らない、そんな頑固者の女の子でした。

女性が教育を受ける機会があまりなかった時代ですが、
父の方針で彼女は東京女子高等師範学校附属高等女学校、
現在のお茶の水女子大学附属高校に入学します。

ただ、女性への教育が行われているとはいえ、
この学校に限らず、女子に対する教育は「良妻賢母」を養成するものでした。

そんな教育方針に不満をおぼえ、自分の考えを貫く明は、
クラスメートたちとともに、授業をボイコットしたこともあります。
今の時代でも、なかなかそんなことをする学生はいません。

女性の本質とは何か?

次に明が進んだのが日本女子大です。
これは彼女が望んだ進学先で、創立者の成瀬仁蔵(なるせじんぞう)の教育方針である
自ら学び自ら行動する「自学自動」の精神に共感したからでした。
進んだのは家政学部。
日本女子大は当時の女子大としては珍しく、国文学部や英文学部もあり、
明も本当は英文学部志望だったようですが、
そもそも、父が大学進学に反対していたのでした。

教育熱心だった父でしたが、当時、日本は「西洋に追いつけ追い越せ」の時代が一段落し、
日本古来の価値観の見直しが始まっていました。
平塚家の洋館の家も和風に建て替えられ、
「女性は良妻賢母になることが幸せ」だと父は考えたのです。

彼に限らず、単に「女性に学問は不要」というだけではなく、
「女性が知識を得ることで不孝になる」と考えられていた、そんな時代です。
そして、明については娘の気持ちを汲んだ母が父を説得し、
家政学部なら、ということで進学が認められたのです。

進学したものの、現実は思うような「自学自動」ができず、
自習していると、先輩たちから和を乱すとしてつまはじきにされ、
日露戦争の影響で、学内も国家主義的教育が強くなります。

彼女はこの大学に希望を持てなくなり、
宗教や哲学、そして禅に興味を持つようになり、
己の中に向けて自我の探究を始めます。

この人との出会いが人生を変えた

彼女の名前が広く知られるようになったのは22歳の時。
それは、当時とてもスキャンダラスな出来事からでした。
夏目漱石(なつめそうせき)の門下生に森田草平(もりたそうへい)という人がいたのですが、
この森田らが主催する文学講座に明も参加。
彼女が書いた小説を森田が高く評価し、交際が始まりました。

この森田草平という人物が不祥事を繰り返していた人物で、
美的感覚も極端。
「美しい人が迎える死の瞬間こそが最高の美」だと考えていて、
その美を、明に求め、拳銃を購入し、心中の旅へと誘います。

後に彼女が語るところによれば、彼への恋心はなく、
愛情もなかったといいます。
それでも、明は遺書を書き、母の懐剣を懐に入れ、
最初で最後になるはずのデートに臨みます。

二人は栃木・那須塩原(なすしおばら)に向かい、
日光に抜ける雪の山道へと進みます。
森の中で二人は向かい合いました。

この時、森田は既に疲れていました。
雪の中を長時間歩き、
そして死を決意した時から既に時間が過ぎていて、
とっくに死のうなどという意識は薄くなっていました。

そして、森田は明に言います。
「私を愛していないあなたを殺せない」

この言葉に明は激怒。懐剣を雪の谷に投げ捨てます。
自宅に書き置きを残しておいたことから、捜索願いが出されており、
警官や宿の人たちにより、救出されたのでした。

ここで話が終われば、大スキャンダルになることはなかったのでしょうが、
森田は師匠である夏目漱石に引き取られ、
漱石が彼にこの事件を小説にするよう勧めます。

そして、小説「煤煙(ばいえん)」が朝日新聞に連載され、森田は小説家としてデビュー。
世間中にこの事件が知れ渡るようになってしまいました。

明の母はこの小説を打ち切りにしてもらうよう漱石の元を訪ねて頼み込んでいますが、
母の気持ちは理解しつつも、漱石は森田の肩を持ち、
小説は発表されてしまいました。

ちなみに、その後の森田はこの小説が縁で、
朝日新聞の嘱託(しょくたく)社員として契約します。
この頃、石川啄木(いしかわたくぼく)が同僚にいて、親交を深め、
森田は啄木を漱石に紹介し、
以後、啄木は森田や漱石とその妻に借金を繰り返すようになります。

自分自身強く持つことが大事

平塚明のほうは、新聞の格好の餌食となり、
今のメディア以上に、あることないことを書き立てられ、
彼女は世間からのバッシングにさらされるようになってしまいました。

森田らが主催していた文学講座はスキャンダルでなくなってしまったのですが、
同じく主催者の一人だった生田長江(いくたちょうこう)が、
女性だけの文芸誌の発行を勧めます。

進歩的文化人は、西洋のフェミニズムの流れを敏感に感じ取っていました。
しかし、明自身、文芸にあまり興味を持っていませんでした。
彼女が考えていたのは、自我の探求だったのです。

ただ、日本女子大時代の級友で俳人、歌人の保持研子(やすもちよしこ)が
「女性だけで文芸誌を作ることができるなんて」と乗り気になり、
婦人月刊誌「青鞜(せいとう)」が創刊されることになりました。

この名前は英語の「blue stocking」の和訳として付けられたもので、
従来、西洋で女性は黒い絹の靴下を履くことが良いとされていた中、
その常識にとらわれず、青い色の毛糸の長靴下を履くことが、
女性の自由と、知性の高さのシンボルとなっていたことから、
この月刊文芸誌は「青鞜」と名付けられました。

創刊にあたっては、資金が必要でしたが、
当然、明にそんな蓄えがあるはずもなく、
悩んでいた時に、また手を差し伸べてくれたのが母でした。

夢を叶えた!しかし・・・

母・光澤は独身時代、三味線である程度の経済力がありました。
結婚後は夫が芸事を好まなかったため、
一切、三味線には触れていなかったようですが、
いつか娘が嫁に行く時にと、蓄えを残しておいてくれたのです。
母は明のために、お金を手渡します。

1911年(明治44年)、「青鞜」創刊号千部が発行されます。
名を連ねていたのがそうそうたるメンバーで、
巻頭を飾ったのは、歌人で作家の与謝野晶子(よさのあきこ)でした。

そして、この時、明は創刊の辞を寄せ、その中で
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。」
という言葉を書き、初めて「平塚らいてう」と署名します。
この時、26歳。

ペンネームの「らいてう」は野鳥の雷鳥のことで、
彼女が塩原での心中未遂事件の後、
世間から逃れるようにして過ごした信州の地でこの鳥のことを知ります。
高山(こうざん)で、孤独に気高く生きる雷鳥の姿に、憧れを抱き、
自らの名前としました。

太陽は自ら光る星なのに対し、
月は太陽から放たれた光によって輝きます。
古くは日本でも自ら輝くことができたはずの女性は
今や、病人のような青白い顔の月になってしまっていると説きます。

以後、「青鞜」は単なる雑誌ではなく、
結社として、女性解放思想の拠点となります。
ただ、順風満帆ではなく、世間からの風当たりは強く、
異端の女たちという偏見は変わりませんでした。

そして、メンバーの一人がバーでの飲酒や、
恵まれない環境にある女性を知りたいと吉原遊郭を見学し、
それをメディアがこの時とばかりに書き立て、
度々、ピンチに陥りました。

平塚家には野次馬が押し寄せ、中には石を投げる者たちも。
らいてうはそれを鼻で笑うかのように、
バーでの飲酒事件にからめて、
「一番沢山呑むだのは矢張(やはり)らいてうだった」
と書き、世の中を徴発してみせました。
また、不倫を扱った小説が問題視され、発禁処分になったこともあります。

「青鞜」発刊の頃、彼女は画家志望で5歳年下の奥村博史(おくむらひろし)と出会っています。
結婚はせず、事実婚という形を選ぶのですが、
それは、これまでの自分たちの主張と矛盾するのではないかという思いからでした。

これも、世間からバッシングを浴びることになります。
奥村との間に二児をもうけ、婚姻届も提出することになるのですが、
この奥村の絵がなかなかものにならず、収入はらいてうの筆だけが頼りとなります。

しかし、睡眠時間を削っての育児と、その合間の執筆に加え、
夫が病に倒れたため、看病もしなければなりません。
そんな時、与謝野晶子が
「経済力を持たない女性の結婚は、夫の奴隷に過ぎない」と論文で発表。

これにらいてうは反論します。
らいてうは社会的な母性の保護の必要性を考えていました。

女性解放思想の基となるものは?

それは、今の社会保障、産休、育休のようなものの考え方です。
与謝野晶子とは意見の対立が見られましたが、
らいてうの考えは、今の時代に受け継がれています。

時代は第二次世界大戦、そして終戦。
ベトナム戦争終戦後は、「ベトナム母と子保健センター」を設立。
反戦を訴え続け、「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言。
1971年、胆嚢・胆道がんにより、85歳で亡くなっています。

身長145cmと、当時の女性としても小柄だった平塚らいてう。
しかし、信念を曲げないそんな女性だったのでしょう。
そして、彼女が母性保護の重要性を説いたのは、
自分の子育てに加え、自分を守ってくれた母への思いだったのかもしれません。

それでは今回もご視聴いただき、ありがとうございました。
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