【おね】大勢の母だった北政所 彼女もまた天下人だった

戦国時代といえば、男性中心の世界で、
女性たちの活躍が記録に残ることはまれです。
そんな時代に、天下を動かしていた女性がいます。

おね。ねね、北政所(きたのまんどころ)としても知られる彼女ですが、
彼女がいなければ、豊臣秀吉は存在しなかった、そんな人物です。
今回はそんなおねのお話です。

このブログでは
あなたのビジネスに役立つ偉人たちの失敗談や成功体験の
ものがたりをわかりやすく解説しております。

起業・企業にストーリーは大切ですよね。
あなたのお役に立てれば幸いです。

よかったら見逃さないようにしておいてくださいね!

おね(北政所)の人生とは・・・

おねが生まれた年ははっきりしていません。
尾張国(おわりのくに)朝日村、現在でいえば愛知県清須市に
織田信長に仕えていた下級武士の杉原定利(すぎはらさだとし)の娘として生まれたとされます。

のちの秀吉、藤吉郎(とうきちろう)は立身出世への意欲が強い人で、
百姓の身分では飽き足らず、いくつかの武家を渡り歩いた後、
織田家に奉公します。

秀吉は足軽(あしがる)でした。
足軽というのは、百姓と武家の間のような存在で、
兵士としては最下級の扱い。
そんな藤吉郎がおねと出会い、恋をします。

恋愛結婚などはほとんどあり得ない時代。
ただ、おねのほうも、藤吉郎に惹かれていたようです。

もちろん、おねの家は猛反対。
「どこの馬の骨ともわからないような男に」という言葉がありますが、
藤吉郎の場合、「馬の骨」かどうかすら怪しい男です。
ただ、おねの兄の木下家定が、藤吉郎を木下家の養子とするという解決策を提案。
藤吉郎を武家にしたのです。

1561年、藁(わら)の上でつつましやかな祝言を挙げ、
2人の恋愛は実を結びました。
この時、おねは14歳だとされ、
秀吉は26歳でした。

藤吉郎は苗字を手に入れ、「木下藤吉郎」となります。
この結婚が彼のサクセスストーリー、最初の転機といえるでしょう。

ヒラの足軽から足軽組頭(あしがるくみがしら)に、
さらに足軽大将(あしがるたいしょう)に出世、
織田軍の中で活躍し、度々敵将の投降工作を成功させています。
また、この頃の彼の書簡には「木下藤吉郎秀吉」という署名が見られます。

信長が美濃国(みののくに)の稲葉山(いなばやま)城を手に入れ、
岐阜城と改称。秀吉もおねとともに岐阜に本拠地を置くのですが、
彼自身は信長について回ることが忙しく、なかなか岐阜には帰れません。
京にいた頃には、浮気の虫が騒ぎ、子どもまで儲けています。

「英雄色を好む」といいますが、
秀吉はその最たるもので、「女好き」でした。
戦国武将たちは、女性だけでなく男性も恋愛対象にしていたのですが、
彼は根っからの「女好き」。
男に興味を示さない少数派で、のちに多数の側室を抱えることとなります。

1573年、秀吉は信長から北近江を任され、
長浜城の城主となり、ついに一国一城の主に。
おねも長浜へと移ります。

秀吉は長浜に多くの人を呼び込み、経済を活発にしようとします。
そのために、年貢などの税を周辺よりも低く設定。
しかし、この政策が効果的すぎて、人口が過密になってしまいました。
そこで、秀吉は税率を高くしようとするのですが、
それに反対したのが、おねです。
そして、秀吉はあっさりとおねの意見を聞き入れます。

人望があったおね

おねは夫に物怖じせず話す女性でした。
長浜の政治は、不在のことが多かった秀吉に代わり、
おねが執り行っていたのです。

また、秀吉には一代でたたき上げてきた彼ならではの問題がありました。
成り上がり者だった彼には、まわりに彼を支える近親者も、
代々の武将たちもいませんでした。

そこで、彼は尾張時代から加藤清正(かとうきよまさ)や
福島正則(ふくしままさのり)などの縁者を養育して取り立て、
ゼロから家臣団を作り上げようとしました。
ただ、秀吉自身は地元を空けがちでしたので、
彼らの面倒は、おねが担うこととなりました。
この家臣団とともに、秀吉は天下統一へと突き進むことになります。

なお、長浜時代に彼は「羽柴」という姓を作り出して羽柴秀吉となり、
主の織田信長は安土城を築き、本拠地としました。

信長はおねをたいへん気に入っていたようで、
安土城におねがやって来た時のことを思い出し、
手紙で彼女の美貌を讃えています。
おねが贈った土産物などの礼についても書かれているのですが、
信長がこの手紙を書いたのは、おねが秀吉の浮気性を悩んでいたからでしょう。

信長はおねを気遣い、
「藤吉郎があなたのことに不満を言うのは言語道断である
全くもってけしからぬことであり
いつの時代でも、どこの場所でも
あのはげねずみには、あなたほどの女性は見つけられないだろう」
このようなことを書き送っています。
もちろん「はげねずみ」とは秀吉のことです。

通常、信長は手紙を右筆(ゆうひつ)という文官に代筆させていたのですが、
この手紙は信長の自筆。
それほど、信長はおねを思いやっていたのでしょう。
信長はこの手紙を秀吉にも見せよとも書いています。
自分はおねの味方だと、秀吉に認識させたかったのです。

この手紙は1577年のものだとされますが、
その5年後の1582年、本能寺の変が起きます。
織田信長が家臣・明智光秀に襲撃され、自害してしまったのです。

この頃、織田家の重臣たちは各地に散っていました。
秀吉は中国地方の征伐(せいばつ)を任され、
備中(びっちゅう)高松で毛利軍と対峙(たいじ)していました。

京の本能寺や二条城を襲撃した明智光秀の軍は、
都と周辺にいる織田一族と家臣たちの掃討を始めます。
もちろん、おねがいる長浜城も標的になるのですが、
おねが面倒を見ていた家臣団の働きもあり、美濃国の土豪(どごう)の元に避難しています。

光秀が予想もしなかった速度で秀吉が京に戻ってきます。
光秀の軍を打ち破り、「主の仇討ち」を果たした秀吉は、
織田家家臣団の中で、最も強い発言力を持つのでした。

戦で対立する織田家旧臣(きゅうしん)たちにも勝利、
秀吉の本格的な天下取りが開始。
かつて信長が安土の次に拠点にしようとしていた大坂に城を建てるのでした。

この頃、信長の次男で秀吉の台頭を喜べない信雄(のぶかつ)と、
信雄に泣きつかれた徳川家康が組み、秀吉と衝突することになります。
この戦の中でも、秀吉はおねと手紙のやりとりを欠かさず、
秀吉は「腹が痛かったがよくなってきた」などと書き送っていて、
戦況についても、粗方(あらかた)のことはおねに伝えていたようです。

秀吉は有力大名たちが離反(りはん)しないように、人質を出させ、
大坂に住まわせていました。
その世話をしていたのもおねで、
人質の身に何かあると、とたんに大名たちが寝返る恐れがあるため、
重要な役割です。
また、子がいなかった秀吉・おね夫妻でしたが、
おねの兄の子・金吾など、多数の養子がいました。
実子はいなくても、おねは「母」だったのです。

家康との戦が和睦(わぼく)という形で終結し、
ついに秀吉は関白となります。
関白は天皇を補佐する役職で、
本来なら、特別な家柄の公家しか就けませんでしたが、
秀吉はまず自身が平家の一門であると主張し、豊臣家を創設。
豊臣朝臣(あそん)秀吉となります。
ちなみに豊臣は氏(うじ)で、朝臣が姓(かばね)、
羽柴は苗字で秀吉が諱(いみな)になります。
苗字などが変わったというわけではなく、
以後も彼は豊臣秀吉であり、羽柴秀吉でした。
一方、おねは摂政・関白の正室の称号である北政所となります。

彼女もまた政治の中心的人物だった!

秀吉は京に聚楽第(じゅらくてい)を建て、
後陽成(ごようぜい)天皇を招きます。
この時の行幸(ぎょうこう)の手配をしたおねの功績に対し、
おねは朝廷から上から2番目の位階(いかい)・従一位(じゅいちい)に叙せられます。

1593年、秀吉の側室の茶々が男子の拾(ひろい)、のちの秀頼を産みます。
跡継ぎの母である茶々は正室の扱いとなり、
事実上、晩年の秀吉には正室が2人いたことになります。

おねと茶々の不仲説はよくいわれるところですが、
実際にいがみ合っていたという記録はなく、協力関係も見られます。
おそらく、おねは豊臣家を守ることに専念し、
茶々は拾の養育という役割分担がなされていたものと思われます。

秀吉とおね、茶々の関係では、
この後起きる天下統一の総仕上げ・小田原征伐での手紙に表れています。
秀吉は長期戦になるからと、茶々を小田原に呼ぼうとするのですが、
おねに手紙で「あなたが一番」と書き、
「あなたの手配で」茶々を寄越して欲しいとしています。

拾が6歳の時、秀吉が病に伏します。
死期を悟った彼は有力大名たちに後事を託します。
財産分与では、おねが最大としました。

秀吉が没します。
豊臣政権で、真の実力者は前田利家と徳川家康でした。
利家は秀頼の後見役を任されたものの、
既に人生の終わりが近づいており、時代は徳川家康に味方します。

徳川家康は豊臣政権の中で、諸大名と姻戚関係を結ぶなど、
生前の秀吉が禁じていた多数派工作に奔走します。
豊臣家に忠誠を誓う石田三成らと、徳川家康が衝突。
1600年、関ヶ原にて激突します。
西軍・三成側が有利かと思われましたが、
三成の背後に陣取っていた小早川秀秋が離反。
家康の東軍の勝利となり、西軍は敗れてしまいます。
この秀秋こそが、おねから可愛がられていた養子・金吾、その人だったのです。

このことにより、後世、おねは家康の味方だったといわれるようになりますが、
実際は京で不干渉という立場を貫いていました。
彼女の近親者の動向を見てみますと、西軍についた者、東軍についた者など様々。
もしも、おねが家康の味方だったなら、全員が東軍についていたはずです。
彼女は静かに秀吉の菩提を弔うことを第一に考えていたのでしょう。

1603年、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開府。
しかし、弱体化したとはいえ、豊臣家は健在です。
豊臣側は、いずれ徳川が政権を返上するものと思っていましたが、
家康は開府から2年後、三男で嫡男(ちゃくなん)の秀忠に将軍職を譲り、
代々徳川家が天下を治めていくという意志を全国に示すのでした。
もう天下が豊臣に返還されることはないのです。

1614年の冬、大坂の陣勃発。豊臣の大坂城を幕府軍が包囲します。
この時のおねは京から大坂に入って戦を止めようとしていますが、
徳川の妨害に遭い、京から出ることすらかないませんでした。
豊臣優勢のまま、和睦となるのですが、
次の夏にまた開戦。大坂城は炎上し、秀頼は母・茶々らとともに自刃してしまいます。

おねは豊臣政権の中心にいた人で、
ずっと幕府から監視されていたのでした。
また、秀忠の正室・江(ごう)はおねの義理の娘でもあります。
動こうにも動けない状態だったともいえます。

1624年、おね、死去。
現在も京都市東山区の高台寺にて眠ります。
享年76。あるいは77歳、83歳という説もあります。

秀吉を支えるだけでなく、彼女自身も政治に深く関わりました。
彼女もまた天下人(てんかびと)だったのです。
誰かを支える中で、自らの力を発揮した彼女の姿は、
現代社会を、人と人との関わりの中で生きる私たちの手掛かりになるかもしれません。

それでは今回もご視聴いただき、ありがとうございました。
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