大岡越前といえば、名奉行として知られ、
往年のTBSドラマ「大岡越前」では、加藤剛さんが演じ、
近年には放送局をNHK-BSに変えて、東山紀之さん主演でリメイクされました。
テレビ朝日「暴れん坊将軍」では、徳川吉宗の片腕として登場。
彼の人気は現代に限った話ではなく、
当時の庶民からも慕われていた名奉行だったようですね。
今回はそんな大岡忠相(おおおかただすけ)のお話です。
このブログでは
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起業・企業にストーリーは大切ですよね。
あなたのお役に立てれば幸いです。
よかったら見逃さないようにしておいてくださいね!
大岡忠相の人生とは?
1677年、江戸の生まれ。幼名は求馬(もとめ)でした。
大岡越前の越前というのは、武家官位(ぶけかんい)と呼ばれるもので、
元々は律令制(りつりょうせい)の中で、行政を任された官職の名前。
彼の場合は「越前守(えちぜんのかみ)」だったことから、
現代の私たちは彼を「大岡越前」として認識しています。
ただ、戦国時代以降、武家官位を自称する者が増え、
この肩書きは名目上のものとなり、土地の名前とはあまり関係がありません。
大岡家は徳川家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)の時代から、
松平家、徳川家に仕える旗本の名門。
彼が11歳の頃、5代将軍・徳川綱吉に御目見(おめみえ)しています。
その後、従兄が起こした事件に連座させられ、巻き込まれつつも、
旗本としては格式の高い書院番などに任じられています。
彼の最初の転機は1712年、大岡が36歳の時。
徳川幕府は幕府直轄の要地に遠国奉行(おんごくぶぎょう)を置いたのですが、
大岡は伊勢や志摩、鳥羽などを管轄する伊勢奉行に就任しています。
当時、紀州徳川家の紀州藩と奉行所支配の領地では、度々、いさかいが起きていて、
特に領地の境界争いが多く、伊勢奉行所の裁定は、
有形無形の圧力により、紀州藩に有利になることが通例でした。
ただ、大岡は前例にとらわれず、公正な裁きを下したとされます。
公正な判断をする優秀な人だった!?
この頃の逸話にこのようなものがあります。
紀州藩主の徳川吉宗がいつものようにお忍びで伊勢の海で魚を捕っていると、
伊勢奉行所の役人が彼を捕らえてしまいます。
吉宗が船を出していたのは、神々のための海で禁漁だったのです。
役人たちも、漁民姿の吉宗の正体に気づきません。
そして、白洲(しらす)で大岡と対面することになります。
この時、吉宗は身分を明かし、奉行所の無礼を咎めるのですが、
大岡は吉宗の身分など考慮せず、法に則った裁きを下したとされます。
後に吉宗が将軍となり、その時のことを思い出して、
大岡を重く取り立てたというお話です。
ただ、このお話、後世の作り話です。
紀州藩の和歌山城は紀伊半島の西の端で、
半島東端の伊勢までは遠く、
いくらお忍びでも、気軽に行ける場所ではありません。
ただ、境界争いの裁定の公正さに、
吉宗が目を付けた可能性はあります。
1716年、江戸では第7代将軍・徳川家継が8歳で早世、
将軍家に跡継ぎがいなかったことから、紀州徳川家から吉宗が後継者となります。
第8代将軍・徳川吉宗は、南町奉行に大岡忠相を抜擢。
大岡が40歳の時のことで、この頃の町奉行の就任は60歳前後が多く、
いかに吉宗が彼に期待していたかがわかります。
この時まで「能登守(のとのかみ)」と名乗っていた大岡ですが、
「越前守」と名乗りを改め、私たちが知る「大岡越前」が誕生することになります。
まさに質実剛健!
江戸の町奉行は北町奉行と南町奉行があり、月ごとの交替制。
町奉行の仕事は多岐にわたり、今の時代でいえば、
東京都知事、警視庁警視総監、東京消防庁消防総監、
東京高等裁判所長官などを任される存在。
激務で知られ、だからなのか、歴代町奉行は短命の人が多いようです。
徳川幕府の将軍15人の中でも、特に名君とされるのが吉宗です。
吉宗は幕府の「中興の祖」といわれ、
彼なくしては幕府があと100年以上続くことはなかったでしょう。
享保の改革により、質素倹約を奨励し、
財政破綻状態だった幕府を立て直しました。
その片腕となったのが大岡忠相なのでした。
彼の偉業の中でも、特に讃えられるべきなのが、
町火消(まちびけし)の創設です。
それまでは、武家火消(ぶけびけし)という大名家などが抱える火消がありましたが、
その名のとおり、武家地の消火活動は行うものの、
町人地の火に対し、武家が駆けつけることが禁じられていて、
町人たちに消火のための制度はなかったのです。
そこで大岡は「い組」「ろ組」といった「いろは四十八組」などの町火消を創設。
また、当時の町家(ちょうか)の屋根は、草葺きや板葺きが多かったのですが、
一度火が出ると、屋根伝いに火が広がることから、
大岡は瓦葺きを奨励しています。
さらに、身寄りのない人や困窮している病人などを無料で診療する「小石川養生所」を設置します。
そして、サツマイモ。
江戸時代には度々、飢饉が起きていて、
吉宗の時代には「享保の大飢饉」に見舞われました。
飢えと寒さで200万人以上の死者を出し、
吉宗は今後の飢饉対策を大岡に命じます。
大岡は新田開発のほか、飢饉でも穀物の代用となる食品を探します。
目を付けたのが、今でいう薬学の専門家・青木昆陽(あおきこんよう)でした。
昆陽は九州で栽培が始まっていたサツマイモを江戸・小石川などで作らせ、
享保の大飢饉から50年後、「天明の大飢饉」が日本を襲いますが、
その時、サツマイモが大勢の人命を守ることになります。
小さなことでは「奥付(おくづけ)」。
現代の本の巻末には発行年月日、著者名、発行者名などが書かれているのですが、
最初に著者名や版元の名を、記載するよう法令で定めたのも大岡忠相です。
それが今も受け継がれていることになります。
こんなにもたくさんの逸話が!
さて、大岡越前といえば、何といっても名裁きでしょう。
最もよく知られた名裁きに「三方一両損」というものがあり、
これは落語としても楽しむことができます。
ある日、左官職人が三両の小判が入った財布を拾います。
正直者の彼は財布の中の書き付けから、持ち主が知り合いの大工のものであることに気づき、
彼に届けたわけですが、大工は
「もうとっくに諦めた金だ。拾ったおめえのものだ」
といって、頑として受け取りません。左官は
「江戸っ子のおいらが返すと決めたんだ。さっさと受け取りやがれ」
と財布を押し返します。大工のほうも
「俺も江戸っ子だ。一度決めたことを曲げるわけにはいかねえ」
と譲りません。
そこで奉行所に決めてもらうことになり、大岡の出番となります。
大岡は双方の言い分に理があることを認め、自らの懐から一両を加えて四両としました。
この四両を左官と大工に二両ずつ与えます。
「左官は三両手に入るところ二両しか手に入らず、
大工は三両落としたのに二両しか戻って来ず、
この奉行も一両出すことになった。
三方一両損で丸く収めてはどうか」
大岡の名裁きに感服し、二人は納得したという話です。
続いては「子争い」。
奉行所に二人の女が一人の子どもを連れてやって来ます。
女たちはそれぞれ、自分こそがこの子の母親だと主張しています。
大岡は「では、二人は子の腕を持って左右から引っ張るがよい」と命じます。
「手を離さなかったほうがまことの母親であろう」
ということだったので、
女たちは力一杯、子どもの腕を引っ張るのですが、
その痛さに子どもは泣き出してしまいました。
その姿に一方の女が思わず手を離してしまいます。
離さなかった女は、自分こそが母親だと喜ぶのですが、
大岡は手を離したほうの女こそが本当の母親だろうと裁きを下しました。
「母ならば子を思うものである。
痛がり泣いている子の腕を引き続ける者がどうして母親であろうか」
まさに名裁きなのですが、同様の話は世界中にあり、
これは後の世の創作だとされています。
最も古いものでは、紀元前11世紀のユダヤ・ソロモン王の逸話にも見られます。
「三方一両損」についても、当時の記録になく、
大岡の時代よりも50年程前の町奉行の裁定に、その原型が見られます。
こういった話は、大岡が生きた時代から創作され、
「大岡政談」として写本や講談で日本中に広がっていきました。
それだけ、彼は庶民から英雄視されていたことになります。
では、次のお話はどうでしょうか。
木綿問屋の手代が寺の門前で居眠りをしている間に、
反物を乗せていた荷車がなくなってしまいました。
奉行所による調べが始まりますが、目撃者もおらず、真相は明らかになりません。
そこで大岡は
「寺の門前に地蔵があったであろう。その地蔵を捕らえて参れ」
と命じます。これに与力、同心一同目を丸くして驚くのですが、
大岡は構わず続けました。
「地蔵は盗人の所業を黙って見ていたはず。地蔵も同罪なり」
奉行の命令なので、与力たちは地蔵を縛り上げて、
荷車に乗せ、江戸中を引き回していきます。
町中、奉行所の珍妙な行いに噂で持ちきりになり、
奉行所は野次馬でごった返し、ついには白洲になだれ込んできました。
「天下の白洲に入り込むとは不届千万。罰として反物一反を申しつける」
大岡は野次馬を一喝。彼らは捕縛されてはかなわないと、
反物を奉行所に納め、奉行所は集まった反物を被害者の手代へと渡します。
さらに、反物を詳しく検めると、そこに盗まれた反物を発見。
南町奉行所は、江戸を荒らし回っていた盗賊一味を捕らえることができたのでした。
まさに伝説以上の名奉行!
この話も創作だと考えられているわけですが、
実はこの地蔵が実在しているのです。
東京都葛飾区にある南蔵院(なんぞういん)。
この寺には、縄でぐるぐる巻きにされた「しばられ地蔵尊」が祀られ、
盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなどの御利益があるそうです。
祈願する時には地蔵に縄を縛り、
成就した際には縄を解くとされ、
大晦日の夜には、縄解き供養という行事も行われています。
「大岡政談」の中にも、少しは事実も含まれているのかもしれません。
さて、大岡忠相は20年間もの長きにわたり、町奉行を務めたあと、
格上の寺社奉行に昇進します。
寺社奉行には一万石以上の譜代大名が任命されていて、
旗本の大岡の就任は異例中の異例。
彼を寺社奉行にするために、幕府はわざわざ一万石に加増し大名格にしています。
さらに、その後、正式に大名となり
江戸時代において、旗本から大名となった唯一の人となりました。
1751年に徳川吉宗が亡くなると、
その葬儀の準備をしている時に体調を崩し、
翌年に亡くなっています。享年75。
大岡忠相には、伝説めいた数々の逸話が残されていますが、
伝説以上の名奉行だったのでしょう。
正しいと信じるものを曲げない、
サツマイモや瓦といった新しいことを積極的に採り入れる姿勢は、
現代人にも教訓になるかもしれません。
それでは今回もご視聴いただき、ありがとうございました。
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