【日野富子】働かない将軍に代わって天下を治めた「悪女」

日本で長い間、戦争が続いていたのは戦国時代です。

戦国時代の終わりがいつなのかについては、
豊臣秀吉による小田原征伐による天下統一の時、
あるいは、大坂夏の陣で徳川が豊臣を滅ぼした時など、
いろいろな意見があるものの、その始まりは「応仁の乱」と考える人が多いようです。

1467年から約11年間も続いた応仁の乱は、日本史上、最もグダグダな戦として知られます。

最重要人物の一人として挙げられるのが日野富子で、
日野富子といえば、「天下の悪妻」「悪女」「守銭奴(しゅせんど)」のイメージが強く、
応仁の乱の元凶ともいわれてきました。

しかし、彼女は家と室町幕府の命運を一身に背負い、懸命に守ろうとしていた女性だったのです。

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日野富子の人生とは

日野家は足利将軍家と縁が深く、富子は1440年、山城国(やましろのくに)の生まれ。

山城は現在の京都市を含む京都府南部を指す地域で、
1455年、16歳で後に室町幕府第8代征夷大将軍となる足利義政の正室となります。

義政との間に、女子2人を儲けますが、
将軍家の跡取りの男子には恵まれず、
義政は出家していた弟を還俗(げんぞく)させて呼び戻し、
跡取りにしようとします。

既に僧職にあった弟は何度も断るのですが、
繰り返し兄が懇願したことから決意することになります。

義政はこの弟に義視(よしみ)と名乗らせて、跡取りとしました。

跡取り問題が発端で!?

しかし、皮肉なことに、義視を跡取りに決めた翌年、
富子は男子・義尚(よしひさ)を生みます。
義尚の後見人となっていたとされるのが山名宗全(やまなそうぜん)で、
宗全と日野家が、跡取りの座を巡って義視と対立するようになります。

これが応仁の乱の発端となります。

応仁の乱は極めて複雑で、
将軍に次ぐ要職・管領(かんれい)の畠山氏、斯波(しば)氏の家督争いも加わり、
東軍と西軍に分かれて戦ったわけですが、
軍の構成も一定ではなく、突然、敵軍に付く勢力も珍しくなく、
日本史の中で、最も不可解でグダグダな戦となっていきます。

日野富子は東軍に味方していたものの、
金銭を東軍と西軍、双方に貸し付けていたとされ、
米を投機の対象として蓄財、京の都の出入りで税金を徴収するなど、
今の時代まで続く「守銭奴」のイメージが出来上がっていきます。

ただ、ここまでの応仁の乱のお話に、
本来であれば、登場するはずの人物の名前が出てきていません。
誰あろう、室町幕府第8代将軍・足利義政です。

働かない夫の代わりに・・・

応仁の乱は、京の都のど真ん中で行われた戦であり、
天皇や朝廷はもちろん、室町幕府も京が本拠地でした。
しかし、義政はこの戦にほとんど関わっていないのです。

彼はこの戦だけでなく、政治に全く関心を示さず、
しかしながら、幕府の外交権は手放さず、
この時代に復活させた勘合(かんごう)貿易に大陸との交易で利益を得るのですが、
その利益を家や政治に用いるのではなく、
自分の趣味に投入したのでした。

今の時代にも「働かない夫」を嘆く女性がいますが、
彼は「働かない夫」であり「働かない征夷大将軍」でした。

今も京都の観光名所として人気の通称・銀閣寺、正式名称・慈照寺(じしょうじ)は、
義政が東山山荘として築いたもので、そこには彼の美意識が具現化されています。
趣味に生きた義政らしく、わび・さびを重くとらえる東山文化を大成させます。

しかし、将軍に求められるのは趣味ではありません。

政務を執り行い、紛争があれば仲裁や介入により、乱を治めるのが将軍の仕事。
しかし、「働かない征夷大将軍」の義政は何もしませんでした。

そこで、その正室である日野富子が活躍することになります。
彼女は義尚を跡取りにしたい義政と、
自分こそが次期将軍だと考える義視を和解させました。

そして、両軍の主戦派たちを京から退去させます。
各軍とも、何のために戦っているのかよくわからない中、
戦局が泥沼化しており、それでも自分から戦をやめられないという時に、
彼女は双方に落とし所を提示して、金銭を与えつつ、調停を成立させました。

夫婦仲は冷めきっていた?

では、なぜ彼女が「天下の悪妻」「悪女」「守銭奴」というイメージになったのじょうか。
夫・義政が東山山荘を造営する際、彼女は一切の援助を行いませんでした。
義政と富子の関係が冷え切っていたのは事実のようですが、
夫の趣味に非協力的だったからといって、
悪妻と呼ばれ続けるのはあまりにも気の毒です。

また、彼女には後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)との密通、
つまり不倫の噂があったのですが、
これも悪女のイメージに繋がっているのでしょう。

後土御門天皇と関係があったのは、富子の侍女(じじょ)であり、
それが噂話として、尾ひれが付いたものと思われます。

日野富子が仕切っていた?

守銭奴については、たしかに彼女には莫大な蓄財がありました。
その額は今の価値にして70億円から100億円にもなるといいます。
義政が将軍になった頃、幕府の財政は安定していましたが、
応仁の乱で急激に悪化していきました。

そこで、彼女は「京の七口」と呼ばれる要所に関所を設置し、
通行料を徴収。もちろん、庶民から武家まで不評でしたが、
これが当時、戦で荒れ果てた京のインフラ整備や、
寺社の再建や再興、
焼けてしまった朝廷の御所の再建費用に充てられています。

当時の天皇家は財政面で困窮しており、
公家たちも京の町を離れ疎開。
しかし、天皇が京を離れるわけにもいかず、
難を逃れて、京の町を転々と移り住み、
将軍家の室町御殿に仮住まいしていました。

その生活を支えたのが日野富子です。

また、多額の賄賂を受け取り、便宜を図ったという話もありますが、
当時の価値観として、何か頼み事をする時に金品を贈るのは常識であり、
頼み事を聞いてもらった時にもお礼の金品を贈っていたので、
彼女だけが特別だったわけではありません。

当時の富子に関する記録にこのようなものがあります。

「御台一天御計(みだいいってんおはからい)」
これが意味するのは、政治の一切を取り計らっていたのが
「御台様(みだいさま)」ということであり、
つまり彼女が天下を取り仕切っていたのでした。

いわば「征夷大将軍代理」が日野富子だったのです。

あらゆる人が彼女の元を訪れて請願したため、
金銭や贈りものが大量に集まるのも当然なのです。

富子が特に気を配ったのは、天皇家や朝廷との関係で、
1473年に義政が子の義尚に将軍職を譲ると、
足利将軍家の存続を願い、その後ろ盾となる天皇家や朝廷を重視します。

重荷が増えるばかりで・・・

ただ、義政は隠居したものの、義尚はまだ9歳。
富子の肩にのしかかる重責は増すばかりで、
さらに、義政は隠居の身でありながら、
実権は手放さないという身勝手さ。

自分は何もせず、利益だけを得ようとしていました。
富子の苦労がしのばれます。

応仁の乱の発端についても、
敵対したとされる義視には富子の妹を正室として嫁がせており、
ただ単に「義尚を跡取りにしたい富子」と
「自分が跡取りになりたい義視」の対立と考えるには無理があります。

また、富子が山名宗全を義尚の後見人にしたことが、
応仁の乱のキーポイントともされますが、
これが事実だったかどうか、当時の資料からは確認できません。

ここまでお話ししてきたように、彼女は何も好き好んで、
政治を行っていたわけではありません。

夫・足利義政が政治に対する意欲がなく、
別荘を建て、造園にふけり、能や茶に明け暮れていたからでした。

こんな話もあります。
応仁の乱の前の1459年から約3年間、日本全土は天災に見舞われました。
冷夏と干魃(かんばつ)が続いたかと思えば、立て続けに台風が上陸します。

「長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)」と呼ばれ、
そんな中でも、義政は自身の「花の御所」の再建に莫大な予算を投じ、
あまりのことに天皇が義政を諫める事態に。

しかし、彼はそれを無視。

これも応仁の乱の要因となり、各地の耕作地は放棄され、
さらに人々は飢えに苦しみ、餓死者多数、
賀茂川は遺体で埋まったと伝わります。
富子は政治の表舞台に立たざるをえなかったのです。

義政と富子の子である義尚は、父とは違い政務にも関わり、
これで安心できるかと思いきや、彼は酒と女性に目がなく、
25歳の若さで亡くなってしまいます。
夫・義政もその7年後にこの世を去りました。

室町幕府の権威は失われ、守護大名たちが京の町に集結したことで、
領国を任された守護大名の家臣・守護代などが力を持つようになります。
下剋上(げこくじょう)が当たり前の世の中となり、
長く続く、戦国時代が始まることになりました。

日野富子は悪女なのだろうか?

ただ、それを全て日野富子の責任にしてしまうのは安直です。
日本では、北条政子や淀殿に並び、
「日本三大悪女」に数えられる日野富子ですが、
彼女は現在の総理大臣以上の仕事をこなし、
それは大統領並みの働きで、日本経済を司りました。

文化的にも和歌や連歌(れんが)をたしなみ、
時の関白に「源氏物語」の講義を受けています。

享年は57。
彼女が室町幕府の中心人物として活躍したのは40年弱。
男社会の武家と公家の世界で、彼女は自分が為すべきことをやり遂げたのです。

彼女の生き様は、今の時代に生きる女性、
そして、男性にも教訓になってくれるのではないでしょうか。

それではブログ用にお読みいただき 、ありがとうございました。
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