【樋口一葉】激しい片想いにスキャンダル?貧乏生活の過酷な人生とは

2004年に五千円札の「顔」に採用されたのが、明治時代の女流小説家である樋口一葉。

なんと女性がお札の顔に採用されるのは、1881年の神功皇后(じんぐうこうごう)に続く二番目だそうです。そんな樋口一葉ですが、名前は知っていてもどういう人物だったのかまでは知らない、という人も多いでしょう。実は彼女、縁談が破棄されたり、師匠とのスキャンダル騒動を起こしたりと、なかなかのトラブルメーカーだったようなのです。

今回はそんな彼女の人生にスポットを当てていきます。

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樋口一葉とは

まずは樋口一葉について簡単にご紹介しましょう。

樋口一葉は明治時代に活躍した女流作家(じょりゅうさっか)です。代表作に『たけくらべ』『にごりえ』などがあります。『たけくらべ』は吉原(よしわら)に住む少女と僧侶(そうりょ)の息子の恋を描いた作品。森鴎外(もりおうがい)や幸田露伴(こうだろはん)ら著名人にも高く評価されました。

『にごりえ』は遊女(ゆうじょ)と、それに入れ込む客の落ちぶれていく様(さま)、そして二人の心中を描いた作品です。

これらを書いた樋口一葉は、若くして優れた作品を多く発表しながら、24歳でこの世を去ってしまったこと、そしてまだまだ女性の活躍や自立が受け入れられなかった明治時代に、小説家として身を立てようとしたことなどが多くの人に鮮烈な印象を残しました。

樋口一葉の誕生

樋口一葉、本名・樋口奈津(ひぐちなつ)は1872年、東京に生まれました。

父は身分の低い役人でしたが、一方で高利貸し(こうりがし)も営(いとな)んでいました。そのため、家はそこそこ裕福だったようです。後に「一葉」を名乗る樋口奈津は、読書を好む子どもで、勉強もよくできたよう。女性が学問をすることには否定的な時代でしたが、父が経済的に余裕があったこともあり、樋口一葉を「萩の舎(はぎのや)」という和歌を教える塾に通わせます。

この萩の舎は和歌の他、平安時代の文学などについても教えており、なんと1000人もの生徒が通う大きな塾でした。しかも生徒の中には有名政治家の子どもや公家、大名の一族などもおり、樋口一葉はこのような人々とも触れ合う経験を得たのです。

名作を次々に執筆も、若くして死去

明治28年、23歳になった樋口一葉は代表作となる『たけくらべ』ほか、『にごりえ』『十三夜』をわずか1年あまりのうちに相次いで発表し、この期間は「奇跡の14ヶ月」と評されました。しかし、それからわずかしか彼女の命は続きませんでした。

肺結核(はいけっかく)によって、24歳の若さで死去してしまうのです。軍人でもあった森鴎外は、軍服姿で最高の礼をもって葬儀に参列しようと申し出るほど。多くの人々がその才能を惜(お)しみ、涙を流しました。

樋口一葉のスキャンダラスな人生

才能に恵まれながら、病(やまい)のため若くしてこの世を去った女流小説家・樋口一葉。

しかし、その短い生涯の中で彼女に襲いかかった不幸は病だけではありませんでした。五千円札の顔に選ばれた樋口一葉ですが、彼女の人生は幼少期を除けばお金に縁がなく、貧しさとの戦いの連続でした。また、実は恋愛スキャンダルを起こしたこともあり、意外とお騒がせな人生を送っていたようです。

ここからはそんな樋口一葉のスキャンダラスな人生をみていきましょう。

父の借金と逃した婚約者

東京に住んでいた一葉の父は高利貸しの仕事を営んでいたため、家庭はそこそこ裕福でした。

しかし一葉が17歳のころ、父が死去。家を継ぐべき兄たちは父から勘当されていたため、一葉が家督(かとく)を相続することになります。しかも、父は死去する際、事業に失敗して多くの借金を残していました。その借金も、一葉が同時に背負うことになったのです。

当時は女性が学問をしたり、ましてや出世(しゅっせ)をすることなどなかなか認められない時代でした。そんな中、一葉は日々の生活を続けていくことさえやっとという境遇に置かれたのです。彼女は針仕事など、今でいう内職のような仕事をしてなんとか生計を立てようとしますが、なかなか暮らし向きはよくなりません。

家財をたびたび質入(しちい)れしたりもしたのですが借金はかさむばかりで、樋口家はますます困窮(こんきゅう)していきました。父が元気だったころ、一葉には阪本三郎(さかもとさぶろう)という婚約者がいました。学生で法律を学んでいましたが、一葉の父が死去したのち、一葉の母親との折り合いが悪く、その縁談は立ち消えになってしまうのです。

余談ですがこの阪本三郎は、のちに早稲田専門学校の校長や秋田県知事、山梨県知事などにも任命されています。この結婚が成立していれば、一葉が彼を頼ることもできたのでしょうがそうはならず、相変わらず苦しい生活は続くのでした。

夏目漱石の兄と縁談!?

かつて一葉にはもうひとつ縁談が持ち上がっていました。その相手はなんとあの夏目漱石の兄だったのです。

しかし、これは漱石の父親の意向で破談に。一葉の父と漱石の父は上司と部下の関係だったことがあるのですが、一葉の父は漱石の父にたびたび借金を申し込んでおり、「ただ上司だというだけで金をせびられるのに、この上、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と漱石の父が恐れたのがその理由と言われています。

師匠に一目惚れ

そんな一葉は借金生活から抜け出し、家族を養うための秘策を思いつきます。

それは作家になること。彼女の姉弟子(あねでし)が小説で原稿料を稼いでいたのを見て、一葉は一念発起(いちねんほっき)します。自分も小説を書いてそれが売れれば、家族を養える。これが小説家・樋口一葉が生まれた瞬間でした。そうして小説家を目指し始めた樋口一葉は、恋愛スキャンダルも起こしています。

その相手は小説の師匠である半井桃水(なからいとうすい)。

半井桃水は一葉より10歳ほど年上の小説家で、記者や茶屋の経営などもおこなっていた人物です。師匠となるべき人物を探していた一葉は知り合いのツテをたどって彼と出会い、その門下に入ります。そんな一葉は桃水に出会ったとたん、彼に一目惚れをしたようでした。

「とても色白で、穏やかな顔立ちをしており、3歳の子どもでもなついてしまいそうに見える」と彼の容貌を褒めています。しかし、一方で桃水のほうは一葉に格別な魅力を感じてはいなかったようで、このとき出会った一葉について「みすぼらしい少女」という印象を書き残しています。

一葉の恋は前途有望(ぜんとゆうぼう)とは言えなかったようです。

もてあそばれた樋口一葉

そんな桃水には女性関係に関するよくない噂があり、その噂は一葉の耳にも入ってきます。当然ながら彼女はそのことで思い悩みました。桃水本人はといえば、「同性の友人のように付き合いましょう」となんとも煮えきらない態度をとります。彼女の気持ちを知った上で、うまいこと一葉の恋心をかわそうとしたのかもしれません。

そうしてついに一葉は周囲から、桃水と離れるようアドバイスを受けるようになります。そんな中、一葉がいつものように桃水の部屋を訪ねると、彼から泊まっていくよう勧められます。しかし一葉は彼の部屋に泊まることはありませんでした。ただ、内心まんざらでもなかったようで、その帰り道のことを彼女は日記に嬉しそうにつづっています。

そんな一葉の耳に、こんどは自身と桃水との噂話が飛び込んできます。それによれば「桃水は一葉のことを、自分の『妻』だの『妾(めかけ)』だのと言いふらしている」とのことでした。噂話の真偽はともかくとして、これに耐えきれなくなった一葉はとうとう桃水から離れることを決断します。彼女の恋はこうして終わりました。

一葉が小説家としての才能を開花させるのは、まさしく桃水のもとを離れた直後のことです。その後、売れっ子作家になった一葉の自宅には、島崎藤村(しまざきとうそん)、斎藤緑雨(さいとうりょくう)などの文人が訪れるようになります。一葉はただ作家として彼らに認められていただけでなく、機知(きち)あふれる会話術でも彼らを魅了していたようです。

樋口一葉の人生とは

才能溢れる女流作家というだけでなく、彼女の人生は意外とスキャンダルに溢れたものでした。現代であれば、週刊誌やネットニュースなどがこぞって彼女を取り上げたことでしょう。実は、半井桃水と彼女がいっとき親密な仲にあった、あるいはそうであったかもしれない、ということが公になったのは、彼女の死後に一葉の日記が出版されてからのことでした。

彼女の桃水への純粋な思いを読んだ彼女の文学上の仲間たちは桃水に嫉妬したといいます。また、一葉のかつての婚約者であり、しかしそれを破談にした阪本三郎は、一葉が亡くなって27年後、彼女の記念碑の除幕式に突如現れます。このように、死後何年を経ても、多くの人を魅了し続けた人でもあったようです。

さて、樋口一葉の人生はいかがでしたでしょうか?

是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。よかったらコメントしていただけると嬉しいです。

それではありがとうございました。