毛利元就 三本の矢から学ぶ

「毛利元就」というと、真っ先に思いつくのが「三本の矢」ですよね。しかしそれ以外のエピソードはあまり知られていないのではないでしょうか。織田信長や豊臣秀吉みたいな戦国武将と比べると、どこか地味というか、影が薄いイメージがあります。

しかし実は毛利元就も彼らに負けず劣らず波乱万丈(はらんばんじょう)の人生を送った武将でした。この記事では毛利元就の経歴や「三本の矢」から学ぶチームの教訓について解説していきます!

「三本の矢」毛利元就とは

毛利元就は、現代でいう中国地方を治めた戦国武将。頭が良く、策略家だったことから「戦国随一の知将」なんて呼ばれていたりもします。とはいえ、同時代の武将達と比べると派手な事件や逸話に乏しく、少し地味な印象を受けやすいですよね。

しかしこの毛利元就、実は極貧の身から、一代で中国地方の覇者にまで成り上がった「下克上の武将」なのです。

「三本の矢」毛利元就の経歴と生涯

毛利元就と言えば、家族や仲間との協力を説いた「三本の矢」が有名です。そのような考え方に至ったのは、彼の生涯や数々のエピソードに大きな原因があるのかもしれません。まずは、毛利元就の経歴について解説していきます!

苦労人の毛利元就

毛利元就が生まれた当時、毛利家は安芸(あきの)国(くに)(現在の広島県西部)の弱小勢力に過ぎませんでした。そのうえ周囲を大内氏、山名氏、細川氏と言った超強力な戦国大名に囲まれていました。当時の毛利は、「蛇に睨まれた蛙」のようにビクビク怯えていたのかもしれません。

そんな状況もあって、元就の父は、元就を連れて早々に引退します。そして元就は父の死後、家臣に城を追い出され、領主とは思えぬ極貧生活を送る事になりました。その貧乏すぎる生活ぶりから、「乞食(こじき)若様(わかさま)」などと酷すぎるなあだ名で呼ばれていたそうです。

父と兄が若くして亡くなった事で、事実上、元就が毛利家の実権を握ります。わずか20歳という年齢で初陣を迎えますが、攻めてきた武田軍を鎮圧し、家内での評価を高めました。

27歳で毛利家の家督を継ぐと、異母兄弟が起こした謀反を鎮圧します。

その後、尼子氏、大内氏など、毛利家よりもはるかに巨大な勢力との戦いを経て、中国地方の統一を達成するのでした。

アル中に囲まれた毛利元就

父と兄の死は、毛利元就の人生に大きな影響を与えました。「戦国大名だから、きっと戦場で華々しい戦死を遂げたんだろうな」と考える方も多いかもしれませんね。

しかしこの二人の死因、わかりやすく言ってしまえば、なんと「アル中」です。死ぬか生きるかの戦国時代、ストレスも現代とは比べ物にならかったのかもしれません。

そんなアル中達に囲まれて育った元就。そのせいか自身は酒を飲まず、親族や家臣に対しても「お酒は控えめにしなさいよ」と厳しく注意したそうです。有力な戦国大名だけでなく、重度のアル中達に囲まれた毛利元就の心労はとてつもなく大きかったのでしょう。

狡猾な一面も

「知将」と呼ばれるだけあって、毛利元就には合理的で狡猾な一面もありました。その能力は、数々の有力な戦国大名との戦いで発揮されます。尼子氏との対決では、「尼子氏の家臣が謀反を企てている」というデマを各方面にばらまき、敵の自滅を誘いました。

陶晴賢との対決では、敵のスパイにあえて偽の情報を流す事で優位に立ちました。まさに「情報戦の鬼」といった感じ。こういう狡猾な一面があったからこそ、弱小だった毛利が中国地方を統一する事ができたのでしょう。

養子で毛利の勢力拡大

元就は自分の息子達を周辺勢力の養子に出す事で、毛利家を成長させていきました。次男の元春(もとはる)吉川(きっかわ)家へ、三男の隆景(たかかげ)小早川(こばやかわ)家へ養子に出し、他家への影響力を強めていったのです。武力でなく、今でいう企業買収のような形で勢力を拡大していったわけです。

力で負けるなら戦略で勝つ。まさに「知将」ですね。

毛利元就「三本の矢」の逸話

毛利元就と言えばやはり有名なのは「三本の矢」の話ですよね。ここからは、「三本の矢」のエピソードについて解説していきます!

毛利元就「三本の矢」のエピソード

毛利元就には4人の妻との間に、なんと11人の子供がいました。とりわけ本妻の妙玖(みょうきゅう)との間にできた3人の息子達がお気に入り。長男の隆元(たかもと)、次男の元春、三男の隆景。元就は死ぬ間際に三人を呼び、以下の教えを授けました。

「一本の矢では簡単に折れてしまう。しかし、三本の矢をまとめれば簡単には折れない。」仲間と志を共にし、団結する事の大切さを説いたのです。

「三本の矢」は史実じゃない?

この「三本の矢」の逸話、フィクションであることが分かっています。実は、長男の隆元は元就よりも先に亡くなっており、元就の最期に立ち会う事は物理的に不可能だったからです。また、次男の元春も当時は戦争中で、元就の最期には居合わせていなかった事が分かっています。

「三本の矢」の元ネタは三子訓戒状?

しかし、毛利元就の「三本の矢」は全くのデタラメというわけでもありません。「三本の矢」は元就が息子達に向けて書いた「三子訓戒状」が元ネタだと考えられています。

三子訓戒状は、毛利家を繁栄させていく為の14の心得を書いた書状で、なんとその長さは3メートルに及ぶそうです。三子訓戒状には以下のような事が書かれています。

l 兄弟3人の間に少しでも隔たりがあれば、毛利は滅亡すると思え。

l 他家に養子に出ている息子達も、毛利をないがしろにしてはいけない。

l 3人の結束こそ、妙玖への最大の追善・供養である

いかがでしょうか。現代に伝わる「三本の矢」の話に似ていませんか?「三本の矢」はフィクションですが、「三子訓戒状」から分かるように、元就が息子達の結束を何よりも大事に考えていたのは事実のようですね。

毛利元就「三本の矢」に学ぶチームの教訓

毛利元就の「三本の矢」の教訓は現代に通ずるものがあります。仕事にせよ部活にせよ、チームの団結が大事です。チームが同じビジョンを共有できていなければ、成果は上がらず、たちまち崩壊してしまいます。

逆に、たとえ価値観や仕事の仕方が違っても、同じ目標とそれに向かう姿勢を共有できれば、チームは大きな成果を上げる事ができます。「協力が大事」と言ってしまえばそれまでの話。しかし、常に身内の脅威に悩まされながらも極貧の立場から大出世した毛利元就が言うと、説得力が違いますよね。