徳川慶喜|若き指導者の苦悩とは?江戸幕府を終わらせた最後の将軍の軌跡

 

260年続いた江戸幕府を終わらせた最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)。幕末の難しい局面を乗り切るため強い指導力を求められた人物です。

 

今回は、徳川慶喜のものがたりからあなたのビジネスのヒントを得ていただきたいと思っています。激動の幕末、重大な選択を迫られ続けた慶喜からは、ビジネスに必要な責任感や忍耐力の重要さを学ぶことができます。

徳川慶喜の幼少時代

1837年(天保8年)、慶喜は東京で産声をあげました。文武両道に励んだ慶喜は、非常に努力家で優秀だったと言われています。父・斉昭がもつ尊王攘夷(天皇を敬い、外国を追い払おう)思想も、慶喜に大きな影響を与えたそうです。

 

幼い慶喜は、時の12代将軍・徳川家慶(いえよし)にも能力を高く評価され、将軍職を継ぐ者として一目置かれていました。後に家慶から、将軍家に世継ぎがないときに候補を立てる大名家「一橋家」を継ぐように言われ了承します。

 

小さい頃から努力を欠かさなかった慶喜。地道な努力が光る時期はそれぞれ違いますが、ビジネスでも学ぶ姿勢は見習いたいものです。

 

徳川慶喜の世継ぎ問題

1853年、黒船(アメリカ船)が来航したころ、将軍家慶が病死しました。13代将軍の家定は体が弱かったため、「急いで世継ぎを決めなければ!」と周囲が騒ぎ始めます。

 

慶喜は将軍になる気はないものの、慶喜支持の一橋派と、慶福(よしとみ:後の14代将軍「家茂」)支持の南紀派が5年もの間対立。幕府のワンマン大老、井伊直弼が将軍を家茂に決定したことや、朝廷の許可なく「日米修好通商条約」を進めたことで、尊王攘夷派(天皇絶対主義、外敵入国拒否派)が反発したのです。

 

慶喜は、井伊直弼に反発した者たちと共に幕府から活動を制限され、家で大人しくしているように命じられます(安政の大獄)。これに恨みを持った武士たちは、井伊直弼を暗殺。(桜田門外の変)その後、幕府は武士たちの反感から逃れるため慶喜の謹慎を解くことになります。

 

多くの幕臣が出世のチャンスを狙っていた時代。周囲から「次の将軍に!」とはやし立てられた慶喜ですが、これを辞退します。浮足立つことなく、今の自分に担えるかどうかを冷静に判断していたのかもしれません。

徳川慶喜に命じられた攘夷実行

開国が迫られ世の混乱が続く中、慶喜は「今は攘夷(外国を追い払う)すべきではない。」と考え、朝廷へ交渉に向かいます。しかし交渉は失敗。逆に攘夷実行を命令されるのです。

 

幼くして将軍になった「家綱」の後見職となっていた慶喜は、同じ思いを持つ幕府内の攘夷反対派から猛反発を受けながらも、朝廷に歯向かうことはできずに横浜港を封じる方針を固めます。

 

上からも下からも板挟みにされ、朝廷とも幕府とも折り合いのつかない日々にもめげず、後見職を終えた後に新たな勢力基盤を作った慶喜。メンタル強すぎますよね。

 

徳川慶喜|第15代征夷大将軍に就任

天皇より将軍就任の勅命が下り、慶喜は15代将軍となります。この頃には開国に向けても積極的だった慶喜は、ヨーロッパ(主にフランス)の行政組織を参考に「慶応の改革」を進めます。人材開発、軍事整備、製鉄所や造船所作りをはじめ、欧州へ人材も派遣。派遣された人の中には、2021年大河ドラマの渋沢栄一も含まれています。

 

起業を目指す方々には、まったく新しい国家作りへシフトする慶喜の希望や決意の大きさ、不安や葛藤なども共感できるのではないでしょうか。

 

徳川慶喜の大政奉還|江戸幕府の終わり

1867年、尊王攘夷派を支持してきた孝明天皇が亡くなると、長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)は幕府を終わらせる計画に向けて本腰を入れ始めますが、慶喜はそれを予測していました。同年、慶喜は朝廷に政権を返し(大政奉還)、江戸幕府は終わりを迎えたのです。

 

長州と薩摩は、「幕府が終わっても権力をもち続けた慶喜がいる限り、世の中は変わらない!」と、徳川家の完全取り潰しにかかります。まだ10代だった明治天皇を軸に新政府を作ると宣言。新政府には徳川家の席はありませんでした。(王政復古の大号令)

 

慶喜は内乱を避けたいものの、家臣たちの新政府への恨みは止みません。そして旧幕府軍と新政府軍の戦い「戊辰戦争」が勃発。このとき新政府軍が掲げた御旗(天皇お墨付きの旗)は、慶喜に負けを覚悟させたとも言われてます。

 

鳥羽伏見の戦いで慶喜は、「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ。」と兵に戦いを続けるよう命令。にもかかわらず、慶喜は戦の最中に江戸へ向かってしまうのでした。戦いは中断され、兵たちは慶喜を「保身に走った暗君」と肩を落としたのです。

 

戦場を後にした理由は諸説ありますが、今でも明らかになっていません。どんなに積み上げたものがあっても、無責任な行動によって信用を失うのは一瞬です。リーダーになる者には、責任感は必須。ビジネスでも同じです。

 

徳川慶喜の人生から得るリーダーの教訓

幕末の動乱に振り回され、苦悩の連続だった徳川慶喜。繊細ながらも度胸があって、良くも悪くも理想に貪欲だった慶喜の姿からは、上に立つ人間としてどうあるべきかを考えることができます。

 

一方、戊辰戦争での慶喜の去り際は、彼の信用に大きな傷をつけるものでした。ビジネスでも人間関係でも、失った信用を元に戻すのは非常に難しいです。

 

よくも悪くも、上に立つ人物としての教訓を与えてくれるのが、徳川慶喜ではないでしょうか。

徳川慶喜については、こちらの動画でも詳しく解説しているので、併せてご覧ください!