吉田松陰先生の生涯

今日は明治維新の中でもこのブログの立ち上げのきっかけとなった人
日本という国を大切にする
日本人としての誇りを大切に叫び
激動の幕末に世界一とも言えるほどの教育を施した

 

その名は吉田松陰先生。
について記していきます。

吉田松陰先生 知っていますでしょうか?

はっきりとしたことは知らない人が多いのでは無いでしょうか?
吉田松陰先生はなんと
わずか29歳の29年の生涯だったんですが、なんと5回牢獄に入るという。。。
ということは4回牢獄から正統に出ているという。それもちょっと今ではありえないですよね。

 

今の時代に牢獄に入るその入り方とは全く違っています。
当時は日本も欧米列強に植民地化されてしまう瀬戸際に立たされ、
その世界情勢に危機感を持った松陰先生は日本を救うために行動し、5回も牢獄に入ってしまうのです。

はじめにざっくりと解説しますと

1830年に生まれています、9歳の時に既に、明倫館で教授見習い、先生のようなことをやっていたんです、9歳は小学校3年生くらいです、そして19歳の時は正式な教授になります、今で言えば大学教授と言ってもいいと思います、その後日本各地あらゆるところに行きましてアメリカにもいこうとするんです、そして有名な松下村塾は26歳の時に始めるんですけども、29歳で処刑されるまでわずか2年と4か月、どうして2年と4か月だけでそれほどの大きな影響を与えるほどの大きなことができたのか、大きな謎だと思いますがどうぞ今日は吉田松陰先生の一生をご覧いただきたいと思います。

 

さぁあまりにも有名な吉田松陰ですが

 

松下村塾いうことでこれはいったいどんなものだったのか

 

まずは解説してゆきます。

現在の山口県、長州藩の萩18568月松陰先生は城下の東のはずれ松本村に小さな私塾松下村塾の看板をあげる、松陰先生26歳のころです。

松下村塾、その名は彼の叔父である玉木文之進から譲り受けたもの、松本村に誕生し1本松の下にあることからそう名付けられたといいます。しかし名は同じでも、松陰の教育は叔父の行っていた寺子屋の初等教育からはずいぶん進化し、それはそれはものすごいものでした。。。子供から大人まで、それぞれの能力に合わせワンツーマン当時は身分のないものは武士と肩を並べることさえ許されないという時代に武士だけでなく、農民や町民にも入門を許すさらに費用は無料、貧しいものには食事まで与えた!

さらにさらに!塾は24時間開放されており早朝でも深夜でも塾生の都合に合わせて講義が行われたという松下村塾とは、常識の教育の概念をくつがえすほどの、まさに前代未聞の学校だったのです。

 

吉田松陰の歴史をご覧ください。

天保元年84日松陰先生は長州藩士 杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として誕生します。財政難に苦しむ藩からの支給は乏しく、幼い松陰先生の力を落とすぐらいの貧しさでありましたが両親は教育を忘れることはなかったと言います。5歳の時松陰は叔父吉田大輔の養子となります。明倫館の兵学教授を務める吉田家の跡継ぎになるためです、しかし間もなく吉田大輔は病死、大輔の弟玉木文之進は幼い松陰を1人前の明倫館の教授にするべく覚えが悪ければ殴り倒すほどのスパルタ教育を行います。

なんとハエに反応しただけで?

文之進は、ブチ切れて、ありえないほどボコボコに殴る。

勉強するのは「公」のため、
ハエを払うのは「私」の心。

武士の本分とは、
藩のため、国のため=公のために働くことにある。

武士とは、自分のために生きるのではなく、公のために生きるもの。
学問を学ぶということは、公に役立つ自分を作るためであり、
ハエを払うということすら「私」であるというのです。

かゆみは、私。
掻くことは、「私」の満足。

それを許せば、大人になって、私利私欲に動く人間になる・・・というのが、
玉木文之進の「理念」ともいえる、教育方針。

しかし松陰は弱音を吐くことはなかったのです。

彼はこの時すでに宿命を知っていた?と言います。

励みとなったのは逆境の中で11人も家族を支えた母の姿

だったそうです。

小学5年生が藩主に講義

そしてなんと4年後彼は何と9歳(今の小学校3年生)にして、藩校明倫館の兵学教授見習いにされるのである、明倫館とは開校以来130年の伝統を持ち、全国でも指おりの門であったそうです。やがて松陰は藩主毛利敬親の前で功名を披露する機会があり、、よどみない松陰の語りに敬親は痛く感激、のちに敬親は藩主でありながら若く師範松陰の門下生となった。このとき11歳 小学5年生ですよね。小学5年生が藩主に講義するって??

 

小池都知事に小学校の先生が師事するっていう今ではありえないようなことを松陰先生は成していた。という。。。すごいですよね。子供にお殿様が、教わるという、相当な秀才 松陰先生、「そうですね」でなければこれはできないことですね、ちゃんと教育もあったのに、それで9歳で名門の教授見習い11歳でお殿様に講義するという松陰先生184919歳になった松陰にはある疑問が膨らみ始めます。

 

世の中は貧困と飢えにあえいでいる、明倫館の学問のあり方に疑問を抱いていた松陰は藩に意見書を提出した、文武興隆を害する遊芸は禁止すべき、家柄や要領だけで出世するのはいけない、上下の身分さがありすぎるだが意見書は叶わなかった。そんなある日養父大輔の門弟山田 宇右衛門が江戸土産を手に松陰のところを訪れます。是非見せたいものがあるという、松陰は目を見張った、それは初めて知った海外情勢、松陰にとってまさに未知の世界であった。今の兵学では、必ずや西欧諸国に敗れる日がやってくる世界を知らねばならん、これをきっかけに松陰は明倫館を休職し長崎に向かいます。この時松陰先生21歳、当時の長崎は、日本が世界に開いている唯一の窓である、やがて長崎を出た松陰は平戸に向かい、中国から入手したという西洋の最新情報に目を通すため当時九州随一の蔵書家であった平戸藩の葉山さないを訪ねます。

この時松陰先生は西欧諸国の脅威に愕然とします。

外国の文明がいかに進歩しているか、アヘン戦争では、清の国がいかにされたか、松陰には虐げられ苦痛にゆがむ民衆方を見たのです。迫りくる日本のその恐怖に松陰は病の床に伏していても片時も書物を放すことができなかったといいます。松陰先生は旅の途中、のちに弟子となる江戸商人金子重之輔に出会う、身分の差を感じさせずに日本の将来を熱く語りかける松陰の姿に金子は痛く感激、翌年松陰先生は東北へ向かい、近頃東北の沿岸に異国船が出没し始めているという、白川会津新潟と回り、途中草津へ回ります。そこで見た光景に松陰先生唖然とします。過酷な労働を強いられ数年で死んでいく人達、そこに人間の姿を見ることはできず、松陰先生はその光景に日本の現状を見たように感じます。

「人々の犠牲の上にただ搾取するだけの幕府や藩がある、このままでは西欧に敗れる以前に日本は自滅してしまう。」

つまりある人から見せられた世界の情勢、日本を救うためにも日本を知らなければならない。その気持ちが松陰先生を旅に向かわせたのではないでしょうか?そんな松陰先生旅に出ますと、面白いエピソードがございます。

松陰先生は用を足した後実は必ず・・・

「速足で歩いた」そうなんです。昔は旅は歩きです。

用を足す時間がもったいないわけなんです。「用を足してる時間も惜しい」その時間を取り戻すためダッシュしたのだそうな。。。それだけ日本を救いたいという事だったんではないでしょうか?なんと歩いた距離が日本全国

3年間で13000キロを歩く

13000キロっていうとなんと日本からスペインくらいまでの距離を3年間で歩いたのだそうです。やばいですよね。。。そして旅での出会いも松陰先生は大切にされていたのだそうです。松陰先生は初めて江戸へ上っていっていったいどうすれば日本を救えるのか、彼は江戸のすぐれた学者たちに出会い、その答えを求めようとします。しかし彼らは見識と古い知恵で自分の學以外は受け付けないという学者だらけであり、松陰先生には江戸の学者がつまらなく見えたとその失望ぶりを叔父玉木に伝えています。

「この頃江戸の文学兵学者は兵事について語ることを嫌い西洋のことといえば何ら学ぶべきことがありません。」

黒船に乗り込む

そして最も有名なエピソードとも言えるのはこちらではないでしょうか?1854年、アメリカ東インド艦隊が下田沖に姿を現した 黒船来航です。で松陰先生なんとあわてふためくだけであった、幕府の無策ぶりに大激怒し松陰先生とその弟子金子重之輔は決意を固め日本を救う策をしようとアメリカ密航を企て、黒船にイカダのような船で乗りこんだのである。しかしペリーは結んだばかりの条約を盾に乗船を拒否、二人の冒険はあっけなく幕を閉じました。

藩に連れ戻された松陰先生と金子重之輔は獄へ連れてかれます。

松陰先生に悔いはなく、むしろ誇りにさえ思っていたのであるが、しかしある日届いた悲しい知らせが愛弟子金子重之輔の死である。金子はむごい仕打ちを受け1人死んでいったのである、何が世のため人のためだ、私には弟子1人助けられないのではないか。松陰が投じられた野山獄、そこには生きる望みを絶たれた囚人たちでいっぱいであった、そこには生きた人間ではない、うつろな目のものばかりであった。

そんな彼らをみて彼らが眠りから覚めることはできないか、もう1度人間らしさを取り戻すことはできないだろうか、どんな境遇にいても人間は前向きに生きていた、松陰先生は牢番から手に入れた本の朗読を始めます。松陰先生の声がかすれ始めた後囚人たちが近づいていった、分からないところを問いかけてくるものも、面白いと言って語り掛けてくるものも、そんな11人に優しく丁寧に教える、やがて松陰を慕い囲む輪の人は獄舎いっぱいになっていったと言います。

学問とは生きる喜びであると松陰先生は改めて悟り、なんと獄中が塾のようになったのです。

熱い牢獄・・・びっくりしますよね。

さらにここで記した名著が講孟箚記です。

なんと牢獄で本まで書き上げているわけです。

そんな松陰先生またまた奇跡のようなことを起こします。

投獄から1年と2ヶ月松陰は仮出獄を許されます、26歳、

松下村塾スタート

松陰の元にはあらゆる階層の人々が集まりのちに近代日本を築いた高杉晋作 久坂玄瑞 伊藤博文の若き姿がここにあったこうしてあの松下村塾、わずか150名、この教育が日本中に広まることとなりますが、松陰先生自体は2年と4か月しか松下村塾で教育をしませんでした、その後ここを去らなくなってしまうのです。

1853年 ペリー来航により

幕府はアメリカから不利な修好通商条約の締結を迫られ、松陰はアヘン戦争で知った欧米諸国の無謀ぶりを思い浮かべ訴えた、今こそ長州藩が条約に断固反対を唱えるべきであると、だが幕府の最高峰の権力の大老井伊直弼は条約にあっさりと調印、そして次々と反幕者を捉え始めたのである

 

安政の大獄

これが所謂 安政の大獄です幕府の中心人物を倒すしかないと松陰先生は長州藩に建白書を送りつけます。だが驚いた藩は松陰を再び投獄、塾は閉鎖され、1人去り2人去り150人の門生たちはすべて去っていってしまいます。松陰先生が一番信頼を寄せていた高杉晋作や久坂玄瑞までも去っていった、やがて安政の大獄が長州までも及び松陰先生は江戸送りになりました。この時父である杉百合の助は松陰に句を送ります。

家君(かくん)欣然(きんぜん)として曰く(いわく)
一時の屈(くつ)は万世(ばんせい)の伸(しん)なり、いずくんぞ傷まん(いたまん)

 

一時の挫折は将来の糧となる この投獄になぜ心傷つこうか

これに対し

松陰先生はもはや帰らぬことを決意していました。
18591227日松陰先生は江戸伝馬町にてつゆと消えます。

その享年29歳の

辞世の句が、

「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」

弟子たちは奮い立たす

しかし彼の死はやがて弟子たちは奮い立たせます。松陰の志を継いで高杉晋作が立ち、久坂玄瑞が立ち、そして薩摩土佐へと広がっていった、やがてそれは大きなうねりとなって時代のを動かした明治維新へとつながってゆきます。日本という国を愛し、日本という国のあり方を、本来のあり方を常に

追求し、そしてそこへと引っ張っていったのが松陰先生ではないでしょうか。

僅か29歳という短い生涯に5回も牢獄に入った。つまり4回も牢獄からでたという稀な人生。その人生は神社にもなるほど。大きな重さを持った人生でした、迷い込んでいた日本、松陰はその霧の中から懸命に世界を見て日本の将来を見ようとしていました。平等に人と関わる、この基本的な姿勢の中から人々を目覚めさせていった吉田松陰、彼の志は、その後の日本のために確実の大きな実を結ぶことになったのです。