【千利休】実は切腹していなかった!?秀吉を怒らせた理由とは?

千利休(せんのりきゅう)は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した商人であり茶人です。

お茶の師匠(ししょう)として信長や秀吉に仕え、彼らとその家臣たちの厚い信頼を得ていました。そんな千利休の最大の功績といえば、なんと言っても「侘び茶(わびちゃ)」を大成したことです。彼は信長が珍重(ちんちょう)したような高価な名物ではなく、自分がそのあたりの土や竹から作ったような簡素な茶道具を重んじました。

日本文化に大きな足跡を残した彼は、いったいどのような人生を歩んだのでしょうか。

このブログでは、女性起業家のためのヒントになる、歴史上の偉人や物語の主人公たちの失敗談や成功エピソードをたくさん載せています。是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。

千利休の人生

では、まずは千利休の人生について簡単に見ていきましょう。

堺の商人の息子として生まれる

千利休は1522年、室町幕府(むろまちばくふ)第12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の時代に堺の商人の息子・田中与四郎(たなかよしろう)として生まれました。10代の頃から茶の湯を習い始め、同じく商人で茶人である武野紹鴎(たけのしょうおう)の弟子になります。

ちなみに千利休のものとされる甲冑(かっちゅう)が残っており、そこから推測される身長は180センチほどもあったといいます。

信長に仕える

堺は重要な貿易の拠点であり、商業の中心地であったことから織田信長も目をつけ、早い段階で信長の直轄地になります。1569年、利休は堺の自治を取り仕切る会合衆(かいごうしゅう)の一員となっていたこともあり、信長に仕えるようになりました。信長が彼のことを高く買っていたことを示すエピソードのひとつに「蘭奢待(らんじゃたい)を与えた」というものがあります。

この蘭奢待は少なくとも室町時代から東大寺に伝わる香木(こうぼく)、お香の原料で、それまでに足利義満(あしかがよしみつ)や義教(よしのり)、義政(よしまさ)など足利将軍が切り取りを許されてきた貴重なものです。

秀吉に仕え天下一の茶人に

そして1582年、本能寺の変で信長が亡くなったあと、利休はかねてから織田政権内で関係の深かった秀吉に仕えるようになります。1585年、秀吉はみずからが関白(かんぱく)になった記念に、宮中に赴(おもむ)いて天皇に茶を振る舞います。このとき、茶頭(ちゃがしら)として天皇に茶をたてる秀吉の相談役に選ばれたのが利休でした。

「利休」という名前は、この際に天皇から与えられたもの。

秀吉に仕えることによって、利休は天皇からも認められるほどの茶人として天下にその名前を知られることになったのです。しかし1591年、利休は秀吉の怒りを買い、切腹を命じられます。多くの弟子たちが助命のため奔走しますが叶わず利休は腹を切り、70歳でこの世を去りました。

千利休の失敗エピソード 

信長、秀吉と渡り合いながら茶の湯の頂点にのぼり詰めた千利休ですが、やはり彼も完璧な人間ではなかったようで、数々の失敗もしています。ここからはそんな彼の失敗エピソードをまじえながら、利休がなぜ切腹したのか、という謎に迫ってみましょう。

ニセの掛け物を使い、なかったことにする

あるとき、利休が高額で手に入れた書道作品を茶会で床の間に掛けたところ、こともあろうにそれが偽物であることが判明してしまいました。これはまずいと思ったのか、あるいは偽物を掴まされたことに怒ったのか、利休はその偽物の書をその場で焼き捨ててしまったということです。

しかし、後日また同じような事件が起こっています。

今度は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の書を茶室に掲げた利休。その一休の書が、これまた現物ではなく写しであることがわかると、利休はそれを破り捨ててしまったといいます。ひどく不愉快な利休の顔が目に浮かぶようですね。

天皇の墓を庭石に使うパンクっぷり!?

大河ドラマなどでは「温厚なおじいさん」のようなイメージで描かれることも多い利休ですが、意外とパンクな一面もあります。彼の有名なエピソードのひとつとして、「天皇陵(てんのうりょう)に使われていた石を取ってきて、庭石(にわいし)に使った」というものがあるのです。

これが秀吉を怒らせ、利休切腹の原因になったという説まで唱えられています。当時、数々の天皇陵は特に保護などされておらず荒れ放題の状態でした。長く続いた武士の時代によって天皇の権威も低下していましたから、利休はそれほど異常なことをしたわけではない、といえるかも…?

茶の湯の方向性の違いから解散!? 秀吉を怒らせた理由とは?

利休切腹のはっきりした理由はわかっていません。よくあげられる理由としては、

・不当に高い価格で茶器を売っていた

・利休が朝鮮出兵に反対した

・石田三成(いしだみつなり)などとの政争(せいそう)に敗(やぶ)れ、親しい関係だった豊臣秀長が死去したことにより失脚した

・秀吉から娘を差し出すように要求されたが拒否した

などがあります。

どれも切腹の理由として確定されたものはありません。しかし、仲の良かった秀吉との間に、芸術的な方向性の違いから確執(かくしつ)が生まれていた可能性はあります。利休の茶の湯は、身分の上下にかかわらず、茶室で主人と客が人と人として向き合い、また華美(かび)をきらうものでした。

一方で秀吉は当時の権力の頂点にのぼり詰めた人間であり、内装や茶道具にふんだんに金箔をほどこした「黄金の茶室」まで作っています。派手な装飾によって城を飾り立て、戦国の争乱で乱れた身分秩序を自らのもとに再編成しようとしていた秀吉にとって、利休の茶はもっとも嫌うべき思想であったのかもしれません。

実は切腹していなかった!?

ただ、そもそも利休が切腹したかどうかは文献上、不確かな部分があります。近年、利休は実際には切腹せず生きていたのではないかという新説が提唱されているのです。一次資料では「利休は木像の件で『逐電(ちくでん)』した」、つまり逃亡したとのみ書かれているのです。

利休が切腹したとされるのは1591年ですが、1592年の秀吉から母にあてた手紙には「昨日も利休の茶を飲み、気分がよいです」と書かれています。また同年に秀吉は、家臣の前田玄以(まえだげんい)にあてて「伏見城(ふしみじょう)の造形は利休に任せたい」と書いています。これらのことから、利休がこの時点でも秀吉に仕えており、切腹していないという説があるのです。

秀吉に謝って許されたということなのでしょうか…?

理想を追求した利休

利休が本当に生存していたかどうかはわかりませんが、少なくとも一時は切腹寸前まで追い込まれていた、ということは変わりません。ですが、それはどうしても曲げられない理想を追求した必然の結果であるとも言えるのです。ただ権力におもねるだけの茶人であれば、信長・秀吉に気に入られるような茶を点てることもできず、多くいる文化人の一人として忘れ去られていったでしょう。

いわば世間のトレンドへの「逆張り」が成功したとも言えます。偉い人についていくだけでなく、自らの信念や理想を信じて突き進む心が、成功に導いてくれるのかもしれませんね。

いかがでしたか?

ぜひ千利休の考え方を、あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。よかったらコメントもしていただけると嬉しいです。

それではありがとうございました。