伊藤博文はゲス不倫しまくりで「ほうき」と呼ばれた?アウトすぎる女性関係!

日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文(いとうひろぶみ)。

政府の最高指導者として数々の功績(こうせき)を残した人物ですが、実はその陰(かげ)で彼は女と遊びに遊んで、遊びまくっていたのです。いや…陰というのは間違いかもしれませんね。

何故なら彼は、千人もの女性と関係を持ったと表立って豪語(ごうご)していたのですから。そんなことから伊藤博文にはこんなあだ名がつけられていました。その名も「ほうき」。

女性を掃いて捨てるように取っ替え引っ替えしていたことから、一部でそう呼ばれていたそうです。今回はそんな伊藤博文のふしだらすぎる女性関係エピソードに迫ります。このブログでは、女性起業家のためのヒントになる、歴史上の偉人や物語の主人公たちの失敗談や成功エピソードを沢山配信しています。

是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。

伊藤博文ってどんな人?

伊藤博文は、明治18年に内閣制度を創設(そうせつ)した、日本の初代内閣総理大臣です。

就任当時(しゅうにんとうじ)の年齢は、44歳。この年齢は、歴代総理大臣の中でも最年少記録であり、未だに破られていません。そしてその後、なんと3度も内閣総理大臣に就任しています。伊藤博文は、貨幣法(かへいほう)の制定(せいてい)や、鉄道産業の発展に尽力(じんりょく)し、女性教育の普及にも手を尽くしていました。

まさに明治の日本を近代化へと導いた、時代の先駆者(せんくしゃ)だったのです。

伊藤博文の女遊びエピソード

そんな数々の輝かしい功績を残し伊藤博文ですが、その反動といってもいいほど激しく女遊びに狂っていました。一国の発展を担(にな)った偉人の激しすぎる女遊びとは一体どれほどのスケールなのか、ここからはエピソードの内容をみていきましょう。

女遊びが激しすぎて強制帰還の危機?

伊藤博文といえば、高い英語力(えいごりょく)を持っていたことも有名です。その英語力を身につけるきっかけとなったのが、1863年のイギリス留学。実はそんな留学中、彼は女遊びが激しすぎて強制的に国へ帰らされそうになっていたのです。留学中、伊藤博文には調査のための費用として、他の留学生よりも多額の資金が用意されていました。その資金を持って彼は現地の風俗街のような場所に入り浸り(いりびたり)、遊びまくっていたそうです。

そんなイギリス留学ライフを満喫していたのも束(つか)の間(ま)。伊藤のあまり激しい女遊びを見かねた留学生の間で、彼の帰国を求める声が上がり始めます。大ピンチ!伊藤博文、女で遊びすぎてお国へ強制送還(きょうせいそうかん)!?

一体どうなることやらと思いきや、ここでは一緒に留学していた井上馨(いのうえかおる)が仲介に入ってくれ、ことなきを得たそうです。

ゲス不倫デビュー戦

強制帰国の危機はなんとか免(まぬが)れた伊藤博文ですが、1864年長州藩(ちょうしゅうはん)と西洋列強(せいようれっきょう)が、衝突(しょうとつ)したことを聞きつけ急いで帰国します。しかし伊藤は開国論(かいこくろん)を主張していたため、攘夷派(じょういは)から売国奴(ばいこくど)と言われて命を狙われることに。

さあ、そんなピンチな時にこそ、ロマンスは生まれちゃうんですね。命の危機にあった伊藤博文を匿(かくま)ったのが、芸者のお梅(うめ)。当時彼は、親が決めた妻である「すみ」と結婚していたのですが、そんなことお構いなしにお梅にどハマり。

お梅の元に通いまくり、遊びまくってゲス不倫を重ねた結果、とうとうお梅は伊藤博文の子どもを身ごもります。子どもを身ごもらせてしまったとはいえ、伊藤は妻がいる身。さらに彼は農民の息子であり、妻のすみは武家(ぶけ)の娘。当時まだまだ身分が重んじられていた社会だったため、この結婚は伊藤にとってかなりのステータスになっていたはずです。

しかし、彼は燃え盛る(もえさかる)愛の炎を抑えきれなかったのでしょう。すみを捨てて、芸者のお梅を妻にしてしまったのです。

それでも止まらない女遊び

お梅との結婚後も伊藤の芸者遊びは止まりません。次のターゲットは福原遊郭(ふくはらゆうかく)で料理屋兼(りょうりやけん)、宿泊業を営(いとな)む千崎弥五平(せんざきやごへい)の娘・お仲(なか)です。

実は妻であるお梅は、千崎屋に頻繁に通う伊藤の姿を見て不倫に勘づいていました。とはいえお梅自身もゲス不倫出身。ある程度は伊藤の女遊びを許容(きょよう)していたそうです。さすがゲス不倫の先輩、勝者の余裕を感じますね。

しかしながらそんな懐(ふところ)の深さをも凌駕(りょうが)してくるのが伊藤博文。あまりのひどさにさすがのお梅もとうとうブチ切れ!お梅は井上馨に頼みこんで、お仲を兵庫県のとある巡査(じゅんさ)と結婚させることで、強制的に伊藤との縁を切らせたのです。

強制的に縁を切らせるという手法も驚きですが、何よりイギリスの件といい井上馨の面倒見の良さに感動さえ覚えますね。

高熱にうなされようと関係無し

度重なるゲス不倫エピソードからも分かるように伊藤の女遊びはもはや病的(びょうてき)。例え40度の高熱が出た時も、両手に芸者2人をはべらせていたそうです。恐ろしいほどの体力と性欲の持ち主ですよね。一説では日本で初めて車でコトに及んだのも伊藤だといわれています。

その時のお相手は芸者のおきん。

おきん曰く「狭い馬車の中はタイヘンだった」とのことです。

明治天皇「女遊びもほどほどに」

伊藤の女好きは政界(せいかい)でもかなり有名だったようです。しかしそんなとんでもない一面がある一方で政治には真摯(しんし)に取り組んでいたこともあり、明治天皇から厚い信頼を得ていました。

とはいえあまりの女癖(おんなぐせ)の悪さにかわいがってくれていた明治天皇も見逃せなくなったのでしょう。ついに伊藤の女遊びについて「ほどほどにしなさい」と苦言を呈(てい)します。しかしそんな忠告さえも暖簾(のれん)に腕押し(うでおし)状態。伊藤は、自分はオープンにしているからOK!と開き直っていたという話もあるので驚きです。

伊藤博文のエピソードから学ぶ教訓

英雄色(えいゆういろ)を好むと言いますが、伊藤の女好きはまさにその典型的なパターンともいえます。

何故英雄が色を好むのか?

一説によると社会的地位を目指そうとして努力する人ほど、性欲も強くなるそうです。もし、この説が正しいとすれば、ここまで政治的に功績を残すバイタリティと女好きの性格が相関関係(そうかんかんけい)にあることにも納得がいきますよね。

ただ、時は令和。以前は「英雄色を好む」という言葉はある種ポジティブな意味も持っていましたが、現代では先にも述べている「ゲス不倫」という言葉のように色恋沙汰(いろこいざた)にはかなり厳しい風潮があります。もしあなたが伊藤博文のエピソードに共感を覚えたなら、今後の時代を生き抜くためにいかにその精力を他で発散させるかが鍵となりそうですね。

いかがでしたでしょうか?

今回の伊藤博文の話はお役に立ちそうでしょうか?是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。よかったらコメントしていただけると嬉しいです。

それではありがとうございました。