【和宮】幕末のプリンセスの嫁姑バトル・元許嫁とは敵味方

天皇の妹でありながら、激動の幕末に徳川将軍家を守ろうとした女性がいました。
皇女・和宮(かずのみや)。
幕末を舞台にしたドラマに何度も登場する彼女ですが、
バトルを繰り広げた姑・篤姫は大河ドラマの主人公になったものの、
嫁・和宮の扱いはあまり大きくありません。

しかし、彼女は歴史のキーパーソンの一人であり、
篤姫以上に、幕末を理解するには欠かせない人物です。

このブログでは
あなたのビジネスに役立つ偉人たちの失敗談や成功体験の
ものがたりをわかりやすく解説しております。

起業・企業にストーリーは大切ですよね。
あなたのお役に立てれば幸いです。

よかったら見逃さないようにしておいてくださいね!

和宮の人生とは

1846年、和宮は仁孝(にんこう)天皇の第八皇女として生まれました。
現在の既定では、皇族は生まれながらにして地位が決まっているため、
生まれた時から内親王(ないしんのう)と呼ばれますが、
明治までは、内親王宣下(せんげ)を以て、その地位となります。

彼女は内親王宣下で親子(ちかこ)という諱(いみな)を賜り、
和宮親子内親王となります。
内親王は英語でいえば「princess」。
なお、諱は「忌み名」で、目下の者が口にすることがはばかられる名前であり、
基本的には、彼女が親子と呼ばれることはありませんでした。

和宮の兄は孝明(こうめい)天皇で、
この兄の命により有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約。
この時、彼女はまだ5歳でした。
彼女もその未来を受け入れていたとされます。

しかし、時代は激動の時代を迎えていて、
幕末のプリンセスの未来像が崩れていきます。

自分を犠牲にしても・・・

江戸幕府が弱体化し、朝廷との間に大きな溝ができていました。
時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)らは幕府の権威を上げ、
朝廷との関係強化の一策として、「公武合体」を考えます。

天皇に近い女性を第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁がせてほしいということで、
幕府は和宮を指名。ただ、彼女は既に熾仁親王に嫁ぐことが決まっていて、
朝廷側は孝明天皇の第二皇女である富貴宮(ふきのみや)なら可能であると返答。
この時、和宮は15歳で、富貴宮はわずか1歳でした。

この時代、京の人、特に御所に暮らす人にとって江戸は、
恐ろしい武士たちの野蛮な町であり、
幕末には鬼のような姿をした異人たちもいると考えられていて、
皇女が江戸へ降嫁(こうか)するなど考えられるはずもありませんでした。

当然、和宮は降嫁を拒否。繰り返しの説得にも応じませんでしたが、
自分が断れば、幼い富貴宮が犠牲になります。
また、生まれたばかりの第三皇女・寿万宮(すまのみや)も候補に挙げられました。
自分が江戸に行けば、幼い彼女たちが犠牲になることはなくなります。
そして、この国が平和になると信じ、ついに降嫁を受け入れました。

この時、和宮は幕府に条件を出しています。
父の仁孝天皇の十七回忌を済ませてからの降嫁と、その後の年回忌ごとの上洛。
そして、江戸の暮らしでも「御所風儀(ごしょふうぎ)」という京の御所の流儀を通すこと、
お側付きに御所の女官を付けることを幕府に約束させます。

しかし、事を急ぐ幕府は孝明天皇を説得し、
和宮が仁孝天皇十七回忌に加わることなく、
降嫁することになってしまいました。

京から江戸へ向かうには、東海道と中山道(なかせんどう)がありますが、
東海道は公武合体に反対する勢力の襲撃を受ける可能性があり、
幕府は中山道を選択。総勢3万人の大行列となりました。

江戸城に到着したものの、幕府の約束は守られませんでした。

女同士の闘い

前将軍・家定の正室だった天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)とも対立してしまいます。

篤姫は薩摩国の生まれで先々代薩摩藩主の孫です。
当時、幕府は有力外様大名との繋がりを強化するため、
島津家に縁談をもちかけており、
島津本家に適齢期の女性がいなかったことから、
篤姫を一度、藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の養女としてから、
さらに公家の名門である近衛(このえ)家の養女にして、
第13代将軍・徳川家定の正室としました。

ただ、この家定という人が病弱で、
子どもを期待できない状態での縁組。
家定は篤姫の輿入れから1年半ほどで亡くなってしまいます。
彼女は落飾、つまり出家し、天璋院となります。

皇室出身の和宮と、武家出身の篤姫で価値観が異なるのは当然。
江戸城へ入った和宮が篤姫に挨拶の進物を贈るわけですが、
この時の宛名が「天璋院へ」と呼び捨て。

嫁が姑を呼び捨てるとは何事かと大奥は大騒ぎになります。

大奥では「御所風儀」など微塵も守られておらず、
篤姫は「そんな約束など知らぬ」と突っぱねます。
この初対面でも、篤姫が上座に着き、
和宮には、敷物の茵(しとね)すら用意されないまま、
下座に座らされてしまいました。
あまりの屈辱に和宮は自室で一人泣いたと伝わっています。

御所の流儀による暮らしができず、
あくまでも大奥のしきたりか押しつけられ、
彼女御付きの女官たちと大奥女中の対立も激しくなっていきます。

和宮にも心許せる人がいた!?

そんな中でも、和宮には江戸城に心許せる人がいました。
第14代将軍で夫の徳川家茂です。

少年時代の彼にはこんなエピソードがあります
書の達人に戸川安清(とがわやすずみ)という人がいたですが、
彼が若き将軍・家茂に書を教えることになります。
ある日、いつものように手ほどきをしていると、
突然、家茂が立ち上がり、彼に頭から水をかけてしまいました。

突然の乱心に家臣たちは慌てますが、
家茂は手を叩いて笑い、
「今日はこれまでじゃ。明日も変わらず出仕せよ」
と言って、部屋を出ていってしまいました。
家臣たちが安清を見ると、うつむいたまま泣いていて、
辱めを受けたことを嘆いているのかと思いきや、
彼は家茂の優しさに感謝の言葉を口にしたのでした。

安清はこの時、既に老齢であり、不覚にも失禁してしまっていたのです。
そのことに気付いた家茂は機転を利かせ、
自分が乱心したことにして、水をかけ、
粗相で濡れた安清の着物のシミを水で覆い隠しました。

将軍の前で小便をするなど、厳罰は確実。
手討ちになるか、切腹を命じられても仕方がないところを救われた安清は、
涙で着物を濡らしたそうです。

聡明で人の気持ちを思いやる心を持ってた家茂は、
和宮の境遇を全て理解した上で、
生涯、添いとげることになります。
将軍としては当たり前だった側室も置きませんでした。

あの篤姫も味方してくれた!?

しかし、この時代に将軍夫妻の穏やかな時間はゆるされません。
尊王攘夷で国が荒れる中、家茂は三度上洛。
そして、幕府に反旗を翻した長州藩を討つ総大将として出陣することに。
この時、和宮が詠んだ歌がこちらです。

「惜しましな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも」
(おしましな きみとたみとの ためならば みはむさしのの つゆときゆとも)

この歌は、かつては降嫁の際に我が身への嘆きと覚悟を詠んだとされてきましたが、
現在では、家茂の上洛の時に詠んだものとする説が有力です。
ここからは、江戸に骨をうずめる決心が見て取れます。

当時、長州藩は薩摩藩と結んで、倒幕軍を結成。
戦局が思わしくない中、彼は大坂城で病に倒れます。
そして、死去。享年21。
死因は衝心性脚気(しょうしんせいかっけ)、
つまり、ビタミンB1欠乏症による心不全だと考えられています。

江戸城で家茂の帰りを待つ和宮の元に、
訃報と西陣織が届きます。
それは家茂が江戸城を発つ前、家茂が土産にほしいものはないかと訊き、
懐かしい京の品をと、和宮がお願いしていたものでした。
涸れぬ涙とともに、彼女は歌を詠みます。

「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
(うつせみの からおりごろも なにかせん あやもにしきも きみありてこそ)

華やかな衣も、君がいてこそのもの。
唐織の衣をどうすべきなのかと、その虚しさを歌にします。

家茂が用意した西陣織は
「七宝(しっぽう)文様」という丸い「円(えん)」が連なった柄。
古くから「七宝文様」には
「円満」「縁(えん)が続くように」との願いが込められていました。
それは家茂の願いだったのかもしれません。

彼女は落飾して静寛院(せいかんいん)となり、
この西陣織を増上寺に奉納。
後に家茂の追善法要のために袈裟に仕立てられ、
今の時代に「空蝉の袈裟」として伝わっています。

しかし、悲しみだけで時を過ごせる時代ではありませんでした。
徳川を討つべく、薩摩と長州を中心とする「新政府軍」が江戸に向けて迫ってきます。
この時、これまで反目していた和宮と篤姫は、
力を合わせて、徳川将軍家と江戸を守ることを決意します。

官軍、つまり天皇の軍となった新政府軍の前線司令官は西郷隆盛。
彼は篤姫の義父・島津斉彬に仕えていた人物です。

篤姫は西郷に嘆願書を送ります。
そして、新政府軍大総督は和宮のかつての許嫁・幟仁親王だというのも、
運命の皮肉です。
和宮も軍と朝廷に進軍を止めるよう、自らの命をかけた手紙を書いています。

歴史の表舞台では、勝海舟らの活躍によるところが大きいのですが、
和宮と篤姫の命がけ嘆願が、
江戸城無血開城を実現させ、江戸が火の海になることを防いだともいえるでしょう。

人生は決して甘くはなかった

その後、江戸城明け渡しが決まっても、旧幕臣には従わぬ者たちも数多く、
和宮は彼らに「今は従うべきである。徳川家のために恭順の意を示すべき」と説得しています。

維新後、和宮は京都に戻りますが、明治7年からまた、東京で暮らすようになります。
天璋院や徳川一門らと親交を深めましたが、体調を崩し、明治10年に亡くなります。
享年32。死因は家茂と同じ衝心性脚気でした。

皇族の葬儀は神式で行われますが、
和宮は「家茂の側に葬って欲しい」と遺言していたため、
仏式にて葬儀が行われ、今も彼女は増上寺の家茂の隣に眠ります。

そして、現代の研究により、彼女の木棺からは
直垂(ひたたれ)に立烏帽子(たちえぼし)姿の男性が写った写真が見つかりました。
彼が誰なのかは不明です。

和宮と篤姫はともに、政略結婚で徳川将軍家に嫁ぐことになりました。
両者とも、自ら望んだ輿入れではありませんでしたが、
彼女が徳川将軍家を守ったのは、
その矜恃、プライドがあったからではないでしょうか。

どの時代にあっても、守らなければならないものがあるのです。

それでは今回もご視聴いただき、ありがとうございました。
もしもあなたに、これから起業したい。副業から始めたい。という
思いがありましたら、説明欄のメール講座もよかったら登録してみてくださいね。
ネットビジネス・コーチング・カウンセリング・スピリチュアルに関する
好きをビジネスにするための50個以上の動画講座
が含まれた会員サイトを無料でプレゼントしていますよ!

あなたのものがたりを商品化して本当にやりたい使命を
お仕事にしたい方はこちらの無料メール講座にご登録ください。

メールアドレスはこちらから