【渋沢栄一】倒幕計画であわや大惨事!?新札の顔になる人物のエピソード

渋沢栄一(しぶさわえいいち)は近年、にわかに注目を浴びている人物です。

2021年には大河ドラマの主人公にも選ばれたほか、2024年に新しく発行される新一万円札の顔にも選ばれました。

渋沢は「日本資本主義の父」と呼ばれ、銀行や製紙業、鉄道やホテルなど、現代にも残る多くの有名企業の創立に携わっています。

そんな彼には、ある意外な一面が隠されていたのです…!

今回はそんな注目を浴びている人物・渋沢栄一の気になる裏側をご紹介します。

このチャンネルでは、女性起業家のためのヒントになる、歴史上の偉人や物語の主人公たちの失敗談や成功エピソードをたくさん載せています。

是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。

渋沢栄一の人生

まずは渋沢栄一の人生を一通り追っていきましょう。

農民の子として生まれる

渋沢栄一は1840年に、現在の埼玉県で裕福な農民の子として生まれました。

教育熱心な父親によって漢籍(かんせき)や剣術などを学びながら、藍玉(あいだま)の行商(ぎょうしょう)なども行って、商売の才覚を磨いていきました。

彼は質の高い藍玉を確保するため、農家たちを競争させ、その製品をランク付けすることで彼らの自尊心をくすぐり、結果的に藍玉の品質を高めることに成功しました。

このように若いころから豊かな才能を発揮した人物であったようです。

一橋慶喜の家臣になる

1864年、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕えることになった栄一は、慶喜にこんな意見を述べます。

「幕府はもうすぐ倒れ、一橋家もこのままでは共倒れになります。それを防ぐために本家からは距離を置き、優秀な人材を集めるべきです。幕府から危険視されて潰されそうになったら、武力で抵抗し倒幕することもやむを得ません」

しかし、慶喜は栄一の進言とは真逆の運命をたどります。こともあろうに慶喜本人が徳川家を相続し、15代将軍となってしまったからです。

ほかの一橋家臣たちが出世の予感に喜ぶなか、渋沢は頭を抱えたと言われています。

明治政府の役人となる

1867年の大政奉還のとき、渋沢はパリにいました。

パリ万博に将軍の代理として出席する慶喜の弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)に従っていたのです。

翌年、渋沢は駿府(すんぷ)で謹慎する慶喜と再会します。

粗末な部屋で歴史の敗者としての日々を送る慶喜に、渋沢は一生尽くし続ける気でいました。

しかしその財政に関する手腕を買われ、明治政府の役人になるよう誘われると、租税や関税の担当者になります。

その後、鉄道の建設や地図の作成、また人口調査などに携わることになるのです。

日本資本主義の父

1873年、渋沢は明治政府を去ることになります。

原因は乏(とぼ)しい予算のなかから、大久保利通(おおくぼとしみち)らが陸海軍に多くの予算を要求したことなどと言われています。

その後の彼は民間で実業家として活躍。第一国立銀行の創設をはじめとして、次々に多くの企業を創設していきます。

また、いわゆる営利企業以外にも福祉、教育事業にも出資し、一橋大学の創立者の一人にまでなりました。

  • 岩崎と合本主義

1882年、そのように多くの企業を立ち上げ続けた渋沢のもとで、「共同運輸株式会社」という会社ができました。

当時の海運業は岩崎弥太郎(いわさきやたろう)率いる三菱が独占しているような状態でしたが、渋沢はこの独占状態に果敢に戦いを挑んだのです。

渋沢は常々、「企業活動は広く資本と人材を集め、公益のためになされるべき」という考えを持っていました。「合本主義(がっぽんしゅぎ)」という言葉で表される彼の思想と、真正面から対立したのが三菱の岩崎弥太郎です。

岩崎は「独裁的な経営によらなければ企業などうまくいくはずはない」という信念を掲げながら、なんとか自分の側へ渋沢を取り込もうとします。

渋沢のために芸者を揃え、向島(むこうじま)の料亭で宴を催すも、そこへ現れた渋沢と「合本主義」の是非をめぐって議論になり、話し合いは物別れに終わったというエピソードが残されています。

渋沢栄一の意外な一面とは

ここからは、このように高い理想を掲げ、日本の数々の大企業の礎(いしずえ)を作った渋沢栄一の、ちょっと意外なおもしろエピソードを紹介していきます。

神のお告げに冷静なツッコミ

渋沢が15歳のころ、彼の姉が病気になり、祈祷(きとう)を行うことになりました。

修験者(しゅげんじゃ)が人間の内に神を招くためにはその家の人間を使う必要があり、その役に選ばれたのが渋沢家で給仕の仕事をしていた女性です。

給仕の女性が修験者の問いかけに応じて「この家には無縁仏(むえんぼとけ)が祟(たた)っている」と告げます。

無縁仏というのは弔(とむら)う家族などのない死者のことです。

「どうすれば祟りが鎮(しず)まりますか?」と尋ねると、「祠(ほこら)を立てよ」とお告げがありました。

そこですかさずツッコミを入れたのが渋沢です。「その無縁仏が出たのは何年前のことですか?」

これに対して「50年から60年前のことである」と答えたのですが、そこにすかさず渋沢が質問を重ねます。「そのころの年号は何ですか?」

「天保3年である」

ところが、天保3年はその頃から数えて23年前のことであり、「50~60年前のことである」という先ほどの話と矛盾します。

「本当に神であるならば、年号を間違えるはずがない」と渋沢が得意顔で言ったため、祈祷は取りやめになってしまったとのこと。

迷信を嫌うあまりに空気を読まず、神にさえ冷静に反論してしまう渋沢。

周囲は大いにしらけてしまい、修験者に憎まれたのだとか。

現代であるならば、論破系YouTuberとして人気を博していたかもしれませんね。

倒幕計画であわや大惨事!?

実業家として有名になった渋沢ですが、若い頃は血の気が多かったようで、なんと倒幕のためのテロ計画を企(くわだ)てていたことがあります。

それも、「地元の高崎城を乗っ取り、外国人居留地(きょりゅうち)のある横浜を焼き討ちして外国人を手当り次第に斬る」というぶっそうなものでした。

彼は日頃から、世襲(せしゅう)の繰り返しで腐敗するこの世の中の仕組みをひっくり返したいと望んでいたのです。

70人近くの仲間や武器を集めたものの、この企てはさいわい、実行されずに終わりました。

栄一のいとこの説得によって中止になったのです。

もし実行されたら大惨事となっており、その後の実業家としての栄一の活躍もおそらくなかったでしょう。

お金が集まらず自分の銀行から借り入れ

岩崎弥太郎の独裁的な経営と真っ向から対立し、公益のための事業をおこなうという信念を持っていた渋沢栄一。

しかしそれがいつもうまくいくとは限らなかったようで、さまざまな経営上の失敗もしています。

そのひとつが、現在の王子製紙のルーツである「抄紙会社(しょうしがいしゃ)」を立ち上げたときのこと。

あらたな文化が発展していくのに紙の大量供給が不可欠と考えた栄一は、製紙会社の立ち上げを志すのです。

しかし、そのための資金が一向に集まりませんでした。

困った栄一は他人から借りるのではなく、自分で立ち上げた第一国立銀行から借り入れせざるを得なくなります。

さらには共同出資者であった企業が倒産したり、集めた技術者のスキルが低かった、などのトラブルが続き、彼の製紙業はなかなか軌道に乗りませんでした。

高い理想を掲げたはいいものの、資金や技術のなさに足を引っ張られた栄一。

500もの会社を立ち上げていれば、そりゃあ失敗もしますよね。

失敗も成功に変える強さ

日本経済の発展に大きな足跡を残した渋沢栄一。

しかし彼の成功までの道のりはかなりの苦難に満ちており、多くの失敗もありました。

とはいえ失敗を一度もしていない成功者などいません。

数々の失敗を活かし、次のステップに進むことが大切なのではないでしょうか。

彼の顔が書かれた一万円札がたくさん手に入るように、私たちも高い理想を掲げつつ仕事をがんばりましょう。

 

さて、今回の渋沢栄一の話はお役に立ちそうでしょうか?

是非あなたのビジネスのヒントに役立ててみてくださいね。

よかったらコメントもしていただけると嬉しいです。

それではありがとうございました。