【和泉式部】自分に嘘をつかない 思いを言葉に 純情に生きた天才歌人

清少納言(せいしょうなごん)や紫式部(むらさきしきぶ)の名前を知らない人はいないでしょう。
ただ、和泉式部(いずみしきぶ)という人も、歌人として、
1000年以上が過ぎた今でも彼女はファンを魅了し続けています。

和泉式部のことをよく知らない人でも、
歌は小倉百人一首にも選ばれているため、一度は目や耳にしたことがあるかと思います。

和泉式部という名前は本名ではありません。
当時の女性たちの名前が記録に残っていることはほとんどなく、
彼女の名前は夫だった橘道貞(たちばなのみちさだ)が和泉守(いずみのかみ)だったことと、
父の大江雅致(まさむね)が式部丞(しきぶのじょう)だったからとする説が有力です。

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和泉式部とは?

ちなみに清少納言は氏が清原で、近親者の役職名が少納言。
紫式部の場合は「源氏物語」に登場する「紫の上」に由来し、
式部は父や弟の官位が由来だとされます。

紫式部は和泉式部に批判的で、
和泉式部の文才や歌の才能は認めつつも、素行についてはかなり気に入らなかった様子。
「和泉はけしからぬかたこそあれ」と評しています。

紫式部は内向的だったそうです。

だから、和泉式部のように自身の心の内側をありのままに詠み、
奔放な恋に明け暮れているかのように見える彼女を理解できなかったのでしょう。
当時、栄華を極めていた藤原道長(ふじわらのみちなが)も、
和泉式部の扇に「うかれめのあふぎ(浮かれ女の扇)」と書きつけています。

西暦978年頃、平安時代中期に生まれたとされる和泉式部は、
道長の側近の橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚します。
通貞との間には、少なくとも3人の女子を儲けるものの、やがて破綻。
和泉式部がほかの男性と関係を持ったからだというのです。

昔には珍しい恋多き女性だった!?

和泉式部のお相手はあろうことか、冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王でした。
京の都は噂で持ちきりになり、
身分違いの恋として父からは親子の縁を切られてしまいます。
為尊親王が若くして病死すると、
その同母弟・敦道(あつみち)親王から求愛を受けることに。

この頃に詠んだ歌がこちら。

「かをる香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや同じ 声やしたると」
(かおるかに よそふるよりは ほととぎす きかばやおなじ こえやしたると)

弟君である敦道親王からの求愛に、
声は兄君と同じなのかと二人の声を重ねて返しています。

敦道親王が自身の屋敷に彼女を迎え入れようと画策する中、
親王の妃は家出してしまいました。

「夜とともに 濡るとは袖を 思ふ身も のどかに夢を 見る宵ぞなき」
(よとともに ぬるとはそでを おもうみも のどかにゆめを みるよいぞなき)

兄君のことを思えば、のどかに夢を見るなどあろうはずはないという歌。

しかし、弟君との共寝の後に詠まれたこの歌には、

「世の常の ことともさらに 思ほえず はじめてものを 思ふあしたは」
(よのつねの ことともさらに おもおえず はじめてものを おもうあしたは)

この恋は世の中の普通のこととは少しも思えない。
はじめて、ものおもいをしている朝は、と詠んでいます。

「よもすがら なにごとをかは 思ひつる 窓打つ雨の 音を聞きつつ」
(よもすがら なにごとをかは おもいつる まどうつあめの おとをききつつ)

私は一晩中、何を思っていたのでしょうか、窓を打つ雨の音を聞きながら。

この時期には夫・道貞との婚姻関係は破綻状態にあったものの、
世間は和泉式部を道貞の妻だと認識していたようです。
ただ、同時進行かはわかりませんが、複数の男性に言い寄られていたようで、
それでも、道貞が東北に下向する際には、歌を贈っています。

また、こんな歌もあります。

「その夜より わが身の上には しらねれば すずろにあらぬ 旅寝をぞする」
(そのよより わがみのうえには しらねれば すずろにあらぬ たびねをぞする)

初めてお逢いした夜から自分自身がどうなるかわからないまま
思いがけないまま旅に出て、妙なところで添い寝する

これは牛車(ぎっしゃ)の中の記憶。
男女が共寝した次の朝の別れを「後朝(きぬぎぬ)」と言いますが、
宮様から後朝の歌を受け取った和泉式部が返した歌がこちらです。
今の時代にも、クルマの中が情事の場所になることがありますが、
記録に見えるこれが最初の例ではないかとされています。

このように、かなりの男性遍歴が見られる和泉式部は、
鎌倉時代、室町時代には色を売る遊女であるかのような評価を受け、
同時代の紫式部が和泉式部を評したように、
人の道を外した女性だという評価になっていました。

魅力の多い歌がたくさんある

しかし、その情熱的な歌はほかに並ぶ者はなく、
近代の歌人で文筆家の与謝野晶子などが高く評価。
晶子はクローズアップされてきた和泉式部の恋多き部分に加え、
その言葉の中に見られる純情や、愛欲、哀愁、寂寥を重く見ています。

「ひと夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして」
(ひとよみし つきぞとおもえば ながむれど こころもゆかず めはそらにして)

一人で月を見上げて、
あの夜あなたと見た月だと思うと上の空ですという歌。

「こころみに おのが心も こころみむ いざ都へと 来てさそひみよ」
(こころみに おのがこころも こころみむ いざみやこへと きてさそいみよ)

滋賀県大津市の古刹として知られる石山寺での歌。
もちろん、親王は都にいてそばにいないものの、
だったら、ここへ来て「都へ来い」と誘ってよ、と情熱的に歌います。

「今の間に 君来まさなむ 恋しとて 名もあるものを われ行かめやは」
(いまのまに きみきまさなむ こいしとて なもあるものを われゆかめやは)

今、この時こそあなたに来てほしい。恋しくとも、証を立てたくとも、
噂が立ってしまうから、私からは行けない。

私たちは固定観念として、昔の女性は待つものと考えがちですが、
これらの歌はそれを打ち破るもので、
当時の人の中でも、さらに特別だったようです。

さらには

「いとまなみ 君来まさずは われ行かむ ふみつくるらむ 道を知らばや」
(いとまなみ きみきまさずは われゆかむ ふみつくるらむ みちをしらばや)

忙しくて来られないというのであれば、私の方から行きましょう。
漢詩(ふみ)を作る君の元へ、踏みつけて行く道を知りたいものです。

彼女の歌の特徴として、
「恋」などの自分の感情を直接的に歌っていることが挙げられます。
現代であれば、これらの言葉を音楽などに乗せて歌うのは、
女性の方が多いように思います。

しかし、当時の「恋す」という自分が主体の恋愛感情の表現は、
男性のものであり、過去に例が見られないわけではありませんが、
女性が自分自身を主体にして「恋す」と表現するのは、
極めて珍しいものでした。
平安時代において、和泉式部は異端の歌人であり、
だからこそ、現代人の私たちにも彼女の言葉が胸に響きます。

聡明な女性だった

平安時代は仕事にもプライベートにも、和歌を詠む能力が欠かせませんでした。
貴族たちは、突然、和歌を求められることがありますし、
そのためにも、より多くの和歌を覚えておかねばなりません。

即興で歌を詠めるのは、教養の高さの証明であり、
頭の明晰さの証明でもあったのです。

平安時代よりも、もう少し古い時代においても、
「詠人知らず」のような、市井の人たちも多くの歌を残していて、
技術的な面では、貴族たちには及ばないながらも、
彼らの自分の感情や目の前の情景を詠んだ歌には、
今の私たちと共通の感情と、
今の私たちにはない感性があります。

平安貴族の場合、歌は貴族のたしなみであり常識で、
その人の能力を示すものが歌でした。

そして、恋愛においても、まずは歌を贈り、
それに返歌を返してやりとりをします。
今でいえば、メールやメッセージアプリ、DMによるやりとりで、
人となりや、知性を推し量っていました。
これができない人、野暮ったい歌しか詠めない人は、モテなかったのです。

和泉式部が恋多き女性だったとすれば、
それだけ、彼女に言い寄る男性が多かったということで、
彼女に惚れた男たちは皆、夢中になりました。
それは彼女が和歌を詠む能力に優れ、
「モテ女」だったからにほかなりません。

和泉式部は魅力的な女性!

和泉式部はたしかに当時としては型破りな人物ではあるのですが、
詠まれた歌の根底にあるのは、
彼女の古い詩歌に対する知識の深さです。

そして、当時のほかの歌人のように、自分の恋愛感情を恥じることなく、
隠そうとはしませんでした。
また、恋多き女性であるのは間違いないとしても、
彼女は、それぞれの恋に真正面から向き合っていることもわかります。
だから、その人を失った時、悲嘆の思いを歌にするのです。

「捨てはてむと 思ふさへこそ 悲しけれ 君に馴れにし 我が身と思へば」
(すてはてんと おもうふさえこそ かなしけれ きみになれにし わがみとおもえば)

いっそのこと、この身を捨ててしまおうかと思いながら、
そう思うことこそが切ない。君に馴染んだ我が身と思うならば

「かたらひし 声ぞ恋しき 俤は ありしそながら 物も言はねば」
(かたらひし こえぞこいしき おもかげは ありしそながら ものもいわねば)

語らい合った声こそ恋しい。面影は今もそのままだけれども今は何も言ってはくれない。

「ひたすらに 別れし人の いかなれば 胸にとまれる 心地のみする」
(ひたすらに わかれしひとの いかなれば むねにとまれる ここちのみする)

この世を去った人が、今も私の胸に留まっているかのような心地がするのはなぜか。

敦道親王との間に、男子を儲けながら、
その関係も長くは続きませんでした。
彼も兄と同じく、この世を去ります。
出会いからわずか4年ほどの薨去(こうきょ)でした。
流行病が原因だとされます。

最後にこの一首。
和泉式部の歌の中で、最もよく知られているこの歌は、
小倉百人一首にも採られているものです。

「あらざらむ 此よの外の 思ひ出に 今ひとたびの あふ事もがな」
(あらざらむ このよのほかの おもいでに いまひとたびの あうこともがな)

もうすぐ私はこの世を去ることになるでしょう。
この世の思い出に、もう一度だけ、
あの人に会いたい。

目の前の恋に真摯に向き合った和泉式部。
現代に生きる私たちも恋を目の前にした時には、
彼女を思い出してみるのもいいかもしれません。

そして、恋でもビジネスでも、
まず向き合うべきは、目の前にあるものなのかもしれません。

それではブログ用にお読みいただき 、ありがとうございました。
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