情に深い男-前田利家から学ぶ‐思いやり

今回は「前田利家(としいえ)」にフォーカスしていきます。前田利家は戦国時代に活躍した人物で、最終的には加賀(かが)100万石の戦国大名に出世した人物です。織田信長の家臣として数多くの戦に参陣して武功を挙げました。豊臣政権でも5大老の一人として、政権を支えました。

今回はそんな前田利家の生涯と彼が残した名言から学んでいきたいと思います。

前田利家の生涯

前田利家は1539年に尾張国海東郡荒子村(おわりこく かいとうぐん あらこむら)でその地を支配していた土豪・荒子(どごう・あらしこ)前田家の当主である前田利春(としはる)の四男として生まれます。青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門(またざえもん)、槍の又左(またざ)などの異名をもって呼ばれていました。

信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生(いのう)の戦いでは右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げています。利家は武勇(ぶゆう)を買われ、信長の親衛隊(しんえいたい)的な存在である赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭(ひっとう)に任命されます。

その後は天下統一への道を進む信長の家臣として、さまざまな戦に参陣しています。有名どころでは姉川(あねかわ)の戦いでは、浅井助七郎(あざい すけしちろう)なる者を討ち取る功績を上げ、自らの戦働きで出世を果たしていきます。1574年には柴田勝家の与力(よりき)となり、越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)の鎮圧に従事します。

1581年には織田信長より能登一国(のとのくに)を与えられ、七尾城主(ななおじょう)となり23万石を領有する大名となり、信長家臣団の中でも有力な一人としての地位を確固たるものにします。信長が本能寺の変で悲運(ひうん)の死を遂げると、信長家臣団は柴田勝家と豊臣秀吉が後継者の座を争って対立が鮮明となります。前田利家は、最初 柴田勝家に属しますが、最終的には秀吉に降伏(こうふく)します。

秀吉と利家は清洲(きよす)時代に隣同士、安土(あずち)時代に向かい同士の住居であったこともあってか、秀吉が足軽(あしがる)時代から夫婦共に親しくしており、その縁もあったとされます。その後利家は、北陸(ほくりく)一帯を治める大大名としての地位を築いていき、晩年には前田家の石高は100万石近くにまで増加します。

豊臣政権内でも5大老の一人を務め、表面化する武断(ぶだん)派と文治(ぶんち)派を取り持ちながら、後継者、秀頼の後見人(こうけんにん)として政権を支えますが1599年に病死してしまいます。利家が死亡したことを契機(けいき)に対立はさらに深まり、関ヶ原の戦いへと突入し、徳川幕府へとなっていきます。

前田利家の名言

ここからは前田利家の名言を紹介していきます。

「人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ」

桶狭間(おけはざま)の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主(ちゃぼうず)の拾阿弥(じゅうあみ)が、利家佩刀の笄(はいとう こうがい)を盗み、利家を激怒させるという事件が発生します。利家は信長の許可なく信長の面前(めんぜん)で拾阿弥(じゅうあみ)を斬殺(ざんさつ)し、織田家を出奔(しゅっぽん)します。

織田家を出奔(しゅっぽん)した利家は浪人生活となりたちまち生活の糧を失うことになり、生活は困窮します。困窮した利家を助けてくれた人物を生涯忘れることはなかったそうです。自身のこういった体験があったからこそ、ただの武骨(ぶこつ)な人物ではなく律儀者(りちぎ‐もの)で情の深い人物へと成長したとも言えそうです。

前田利家の人柄とは?

前田利家という人物が現れている一つのエピソードとして、「自分の性を部下に与える」ということ生涯しなかったとされます。当時、身分の低い武士たちなどは、手柄を立てれば主君から褒賞(ほうしょう)として自分の性を与えていました。利家は手柄を立てたなら、本当の名前を高めることが望ましいと考えており、個人としても家臣だからと言って上から目線で人を見るのが嫌だったからとされます。

最愛の妻、まつとのエピソード

最後にまつとのエピソードを紹介します。おしどり夫婦と知られる利家とまつです。利家が危篤(きとく)のさいにまつは自ら経帷子(きょうかたびら)を縫い(ぬ)、利家に着せようとします。まつは利家に「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺(あや)めてきました。後生(こうせい)が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子(きょうかたびら)をお召しになってください」と語りかけます。

しかし利家は「わしはこれまで幾多(いくた)の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔(えんま)・牛頭馬頭(ごず・めず)どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子(きょうかたびら)はお前が後から被(かぶ)って来い」と言って着るのを拒んだとされます。危篤(きとく)の際にあっても利家らしい発言であり、その豪胆(ごうたん)な部分は語り継がれています。

結論

ここまで前田利家について紹介してきましたがいかがだったでしょうか。前田利家は「槍の又左」(やりのまたざ)という異名をとるほど武勇に優れる人物でしたが、徐々に情に厚い律儀な人物として周囲から信頼される人物へと成長していきました。

秀頼の後見人を務め、豊臣政権内の仲裁(ちゅうさい)に動いていたことから、もう少し利家が長生きしていれば、歴史は変わっていたかもしれません。律儀者(りちぎ‐もの)で情の深いことは、日本人の共感する部分ではないでしょうか。

やはり信頼できる相手と関係を築いていきたいと誰しもが思う部分ではあると思います。私たちも不義理(ふぎり)なことはしていないか、思いやる心に欠けていないか、もう一度自身の行動や発言を考えなければならないとおもいます。