鬼の異名を持つ「柴田勝家」の性格・生涯を解説

皆さんは「柴田勝家」という人物にどういった印象をお持ちでしょうか?柴田勝家は戦国時代に活躍した武将で、織田信長の重臣として軍事面で織田家を支えました。武官(ぶかん)であり、「鬼柴田」の異名を取るほどの猛将で数々の戦で戦功(せんこう)をあげました。多くの武将からも慕われたと言われています。

今回はそんな柴田勝家の生涯と性格を解説していきます。

柴田勝家の生涯

柴田勝家は織田信長の父である織田信秀の時代から織田家に仕える武将でした。信秀死後は信長の弟であり信之(のぶゆき)に仕えます。信之を信秀(のぶひで)の後継者にしようと林秀貞(はやし ひでさだ)と共に画策(かくさく)し織田信長の排除を試み、戦に及びますが信長との戦いに敗れて、降伏(こうふく)します。その後は信長の実力を認め、忠実に仕える忠臣となったのです。

信長の天下統一へ向けた諸大名(しょだいみょう)との戦いが激化する中で、柴田勝家は信長家臣団の中でも存在感を強め、筆頭家老(ひっとうがろう)を務める中心的な人物へとなっていきます。特に北陸戦線では軍団長を務め、90年間一揆持ち(いっきもち)だった加賀国(かがのくに)の平定し、さらには能登国(のとのくに)・越中国(えっちゅうのくに)にも進出を果たしました。

柴田勝家や豊臣秀吉といった有能な家臣によって領土を広げた織田家ですが、1582年に本能寺の変が発生します。本能寺の変は、家臣であった明智光秀の謀反によって織田信長が討たれた事件です。ここでの初動(しょどう)の動きが柴田勝家と豊臣秀吉の運命のわかれ道となりました。柴田勝家は北陸で上杉家と戦っており、そこから動けない状況が続いていました。

一方、豊臣秀吉は中国地方で毛利家と戦っていましたが、即座に和議(わぎ)を結び明智光秀を討つため近畿(きんき)へ移動し、そのまま明智光秀を討ち取ります。この功績の差が信長亡き後のパワーバランスに直結しました。なんとか影響力を取り戻したい柴田勝家は、信長の妹であるお市(おいち)と結婚します。

自身も織田家一門(いちもん)となり影響力を強めようとしました。ちなみに、このお市との結婚は政略結婚ではありましたが、お市との夫婦仲は良好だったとされます。特に父・長政(ながまさ)が亡くなった時は赤ん坊だった三女の江は勝家によくなついていたといわれています。

柴田勝家と豊臣秀吉の対立は、戦へと発展します。1583年に柴田勝家は北近江(きたおうみ)に出兵し、北伊勢(きたいせ)から戻った秀吉と対峙する、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが発生します。この戦いでは開戦当初は柴田勢が優勢に運んでいましたが、柴田方の佐久間盛政(さくまもりまさ)の命令無視や前田利家の離反(りはん)などによって柴田方は敗走、柴田勝家は北ノ庄城(きたのしょうじょう)にてお市とともに自害しました。

柴田勝家の人柄とは

この時代に宣教師(せんきょうし)してやってきたルイス・フロイスによると柴田勝家は「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」、「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」と評しています。

また賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの敗戦ののちの北ノ庄城(きたのしょうじょう)での柴田勝家が、離反(りはん)した家臣に対して恨み言は言わず、また最後まで付き添ってきた家臣たちには、生き延びることを許し、むしろそれを喜ぶこと、また、今生においてはこれまでの家臣たちの愛情に報いるすべがないことへの嘆き(なげき)を収載しており、勝家の温情(おんじょう)ある人柄を伝えています。

柴田勝家の逸話としては戦いの最中、取っておきの水甕(みずがめ)をわざと槍の柄(   りえ)で突き割って、城中(じょうちゅう)の兵士の反撃決意を固めさせ、城外(じょうがい)に討って(うって)出て、敵勢(てきぜい)を崩し、死中(ちゅう)に活を得た。甕割り(かめわり)柴田の逸話が残っています。戦いにおいての突進力(とっしんりょく)では随一という意味で「かかれ柴田」と呼ばれていました。

柴田勝家は武骨(ぶこつ)な軍人という側面が強い人物ですが、性格として公明正大な人物だったようです。本能寺の変後はあくまでも織田家中心の天下を志した勝家と自身がトップに立つ天下を志した豊臣秀吉とは対立してしまったのだと思います。

結論

ここまで柴田勝家にフォーカスして解説してきましたがいかがだったでしょうか?柴田勝家は武骨(ぶこつ)な軍人でありながらリーダーとしては公明正大(こうめいせいだい)な人物だったとされます。現代でもリーダーに求められる能力として自身の私心を捨てて、公明正大((こうめいせいだい))にふるまうという部分は求められるものです。

柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは部下の命令違反などによって敗北しますが、それ以前の北陸戦線などでは一致団結した行動をとっており、指揮官としての能力は一流です。戦の中での逸話では、取っておきの水甕(みずがめ)をわざと槍の柄(やりえ)で突き割って、城中(じょうちゅう)の兵士の反撃決意を固めさせ、城外に討って出て、敵勢を崩し、死中に活を得たというものがありますが、リーダーとしての諦めの悪さ、使命感が出ているエピソードだと思います。

責任をもって戦に勝利するという使命感は現代にも通用するものです。当時の戦は敗北は死を意味しますが、現代の中では負けたから死ぬという状況はないと思います。良い意味の諦めの悪さは粘りを意味します。柴田勝家のような使命感をもったリーダーが現代でも、組織の中でも必要とされるリーダーだと思います。組織のために死力を尽くす人物こそ、得難い(えがた)人物かもしれません。