松尾芭蕉のストイックな俳諧人生|本質を見極める大切さを学ぶ

松尾芭蕉は、「更科紀行」や「奥の細道」など、全国を旅しながら幾多の句を残した俳人です。彼は自分をあえて厳しい環境に置き、本質を見失わずに自分のスタイルを確立していきました。

 

今回は、松尾芭蕉の人生から仕事への向き合い方や正しい情報の見方などをご紹介します。旅を続けた松尾芭蕉は、何を見て何を感じてきたのでしょうか。ぜひ一緒に、芭蕉のストイックな姿勢からビジネスヒントを得ていきましょう。

 

松尾芭蕉の生涯と俳諧

松尾芭蕉は、わずか50年の人生の大半を俳諧に費やしてきました。松尾芭蕉の俳諧との出会いから晩年まで、その生涯についてご紹介します。

 

誕生~俳諧との出会い

1644年(寛永21年:江戸時代前期)、松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)に誕生。13歳で父を亡くし、生活苦のため、伊賀上野を治めていた藤堂家で働きはじめます。

 

藤堂家には2歳年上で俳諧をたしなんでいた良忠がいました。松尾芭蕉はここで初めて俳諧と出会い、良忠の俳諧仲間として共に学びはじめます。

 

  • 芭蕉と良忠が学んでいたのは貞門俳諧(形式を重んじるもの)
  • 芭蕉が23歳頃、良忠が病に倒れ死去。芭蕉は藤堂家を離れる。

 

江戸への進出と下積み時代

江戸で俳諧師となり活動したい芭蕉でしたが、現実はすぐには上手くいきません。江戸では談林俳諧に出会い学びますが、それだけでは食べて行けず、水道工事をしながら下積みをしていたといいます。

 

このころ江戸では、点取俳諧という形式の大会が催され、成績が良ければ賞金や商品が与えられました。俳諧師の資金源となる大会だったため、芭蕉ほどの腕前があれば良い成績も収められたでしょう。しかし、芭蕉は一切参加しませんでした。

 

「俳諧は賞金稼ぎのためにすべきことではない」と、本質を見失わず俳諧を極めていきます。自分の仕事にしたい俳諧を、賭け事のように扱うことが耐えがたかったのでしょう。仕事に対する信条や行動規範に強い信念をもち紳士に取り組む姿は、ビジネスパーソンにも欠かせませんよね。

 

  • 29歳まで伊賀で俳諧を学んだ後、芭蕉は江戸で俳諧を極めようと旅立つ
  • 談林俳諧に出会う(とにかく自由な形式)

 

独自のスタイルを模索する40歳頃

長い下積みを経ながら、芭蕉は独自のスタイルを模索し続けます。40代に突入する頃の作風、虚栗調(みなしぐりちょう)は、使われる言葉が簡単であっても内容が奥深く、自然を描くものです。

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 

この時期の代表的な作品ですが、現在でも知らない人がいないほど有名で、鮮明に情景がイメージできる名句ですよね。

 

当時、カエルが「ゲコゲコ」と鳴く声を俳諧に取り入れることが多かったのですが、芭蕉は、「飛ぶ」、「飛び込む音」に注目しました。既存の価値観やスタイル捉われず、多角的に物事を見ることができないと表現できない作品です。

 

仕事でも、現状の方法でがベストな結果が得られるのかどうか、多角的な視点をもって見直し続けていきたいものですね。

 

旅によってスタイルを確立「蕉風俳諧」

旅によって確立された「蕉風俳諧」という芭蕉のスタイルは、制約の多い和歌の流れをくむ俳諧ではなく、「優しく誰にでもわかるような言葉で心情や様子を伝えたい」と考えられ確立されました。

 

  • 1685年42歳の旅で『野ざらし紀行』
  • 1687年45歳で『笈の小文(おいのこぶみ)』や『更科紀行』
  • 1689年46歳で、かの有名な『奥の細道』

 

これらの旅で多くの作品を残した松尾芭蕉。笈の小文の序文には、人間的な芭蕉の想いが綴られているのが特徴です。

 

紆余曲折があり、「俳諧をやめよう」「人より優れたものを残さなければいけない…」

という思いを抱いてきたが、結局俳諧一筋を歩むことになったというものでした。

 

松尾芭蕉は、世界からも日本にしかない美(わびさび)の表現者として知られており、俳諧を極めた者として「俳聖(はいせい)」とも呼ばれています。天賦の才能でいきなり俳聖となったのではなく、色々な悩みを抱え試行錯誤しながら道を極めた努力家だったのですね。

 

松尾芭蕉の最高傑作「奥の細道」

松尾芭蕉の最後の旅は、約5ヵ月間とも言われています。この旅で描かれた作品には、情景がありありと浮かんでくる傑作が多いのも魅力です。

 

芭蕉は自分が恵まれた環境に身を置くようになると、わざわざ自分から貧しい環境を求めたそう。実生活であえて不便なところへ住み、厳しい旅に出たりしながら、ストイックに自分の本質や精神と向き合い続けたのです。

 

そんな背景を把握したうえで句を詠むと、さらに美しい表現技法に感動しますよね。

 

  • 夏草や 兵どもが 夢の跡
  • 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
  • 五月雨を あつめて早し 最上川

 

自分で足を運び、自分の目で見て感じたことを表現するスタイルには、自分を信じること、自分で行動することの大切さを教えられます。

 

松尾芭蕉の最期

旅が終わり、芭蕉は伊賀上野に帰郷。1695年大阪にて病に倒れ没しました。50歳の生涯でしたが、お兄さんに当てた遺言状にはこんな言葉が記されているそうです。

 

「ここに至りて申し上げることござなく候」

 

人生に悔いなし、と言わんばかりの言葉には、奥の細道を完成させた達成感もあったのでしょう。

 

ストイックに俳諧を続けてきた芭蕉ですが、「痔」に悩まされていたというエピソードもあります。時には自分を追い込むことも必要ですが、健康を維持することも仕事には欠かせませんよね。

 

松尾芭蕉まとめ

俳諧の道を極め続けた松尾芭蕉は、漢字だらけで語呂の悪い俳句から、五七五に収まる言葉と誰にでもわかる単語を使った親しみやすいスタイルの俳句へ、新しい道を築きあげました。最初から高みを目指したのではなく、苦悩しながらも地道に努力を続け、自分のスタイルとして極めていったのです。

 

起業する時、新しい企画を成功させたい時にも、最初から順調にいくとは限りません。諦めたり焦ったりせずに、突き詰めていく姿勢をもって徐々に極めていきたいですね。